編成とフランス戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 01:40 UTC 版)
「第4SS警察装甲擲弾兵師団」の記事における「編成とフランス戦」の解説
師団は、1939年9月18日ヒトラーの秩序警察より師団を編成する命令により、10月1日に編成された部隊である。もともと警官の人的資源を利用した補充部隊が1934年頃より存在し、それらを利用して、3個連隊と1個偵察大隊、通信大隊より構成される部隊が編成された。 前述のように警察官を主体で構成された部隊で、通常の一線部隊として活躍するには装備経験とも不足していた。ポーランド戦には間に合わず、フランス戦も、1940年1月から5月までは、ドイツフランス国境のフライブルク近傍付近で、第7軍の隷下となり、国境警備と平行して訓練を行なった。この時、フランス軍との小規模な戦闘で11人の犠牲者を出している。フランス戦初期のフランス北方への侵攻(Fall Gelb)時には、戦略予備として北方のテュービンゲン近傍へ移動した。フランス北部での勝利が確定した後、フランス本土侵攻(Fall Rot)の発動に伴い、第12軍に配備され、ルクセンブルクを通過しパリへの進軍を行なった。マース川に沿って進軍し、途中でフランス軍といくつか戦闘を行なったが、既に敗北が決定していたフランス軍は士気も高くなく、大きな損害を出すことはなかった。 フランス降伏後は、1941年6月頃まで、パリを含むフランス北方の占領部隊としてサン=ディジエ に駐留した。この間、訓練、改編が行われたが、部隊としては二線級の部隊のままであった。独ソ戦が始まると部隊は東部戦線へ送られた。
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