結果に関する理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 11:01 UTC 版)
「ヘイスティングズの戦い」の記事における「結果に関する理由」の解説
ハロルドの敗北はおそらく、いくつかの事情によるものであった。一つは、ほとんど同時に起きた2度の侵攻に対して防衛を行う必要があったことである。ハロルドが9月8日に南イングランドで配下の軍勢を解散させた事実もまた、敗北の一因となった。多くの歴史家は、南方へと急ぎ、またヘイスティングズでギヨームと対峙する前にさらなる戦力を集めなかった点でハロルドを難ずるものの、イングランド軍がギヨームの軍と渡り合うに不十分であったかは明らかではない。消耗していたイングランド軍というこのような主張に対しては、丸一日に渡って続いた戦闘の長さが、イングランド軍が長征で疲労してはいなかったことを示している。ハロルドのヘイスティングスへの進軍速度と結びつくのは、ハロルドがマーシア伯(英語版)エドウィン(英語版)とノーサンブリア伯(英語版)モーカ(英語版)について、彼らの対敵トスティが打ち負かされた後は信頼を置くことなく、彼らとその軍勢の南方への動員を断っていた可能性である。ハロルドが戦闘を急いだ理由の一つが、ギヨームの略奪行為を封じ込めて相手の海岸堡からの進出を食い止める点であったと、近代の歴史家は指摘している。 敗北の責任の大半は、おそらくは戦闘中の出来事に帰されるものである。ギヨームは経験で勝る軍事指導者であり、加えてイングランド側における騎兵の不在は、ハロルドが利用しうる戦術上の選択肢を減少させるものであった。一部の著者は、戦闘の早い時期にギヨームの死という噂がもたらした機会を利用しなかったことで、ハロルドを批判する。イングランド軍は後退するノルマン軍を追撃する際に側面を攻撃に対して晒し、守備戦術に徹せずに誤ちを犯したように見受けられる。これがイングランド軍指揮官連の未熟さによるものか、あるいはイングランド軍兵士の規律の欠如であったかは明らかでない。結局のところ、ハロルドの死がイングランド勢の混乱をきたした崩壊を合図するものとなり、決定的であったようである。歴史家デイヴィッド・ニコル(英語版)は戦闘について、ギヨームの軍が「たやすくというものではなく――ノルマン・フランス軍の騎兵と歩兵の混成戦術が、アングロ・サクソン軍のゲルマン・スカンディナヴィア式の歩兵伝統に勝ることを証明した」と述べた。
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