経済界・政界への進出
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「プラボウォ・スビアント」の記事における「経済界・政界への進出」の解説
軍籍はく奪後、ヨルダンに移住して市民権を取得し、3年間に渡り事実上の亡命生活を送っていた。この間、実弟であるハシム・ジョヨハディクスモ(インドネシア語版)のカザフスタンでの石油ビジネスに協力している。2002年にヌサンタラ・エネルギーグループを設立し、木材や製紙業、パーム油、鉱山などの事業を手がけ、2014年の時点で総資産が1億4,800万ドルにも上っている。 2004年インドネシア大統領選挙(英語版)ではゴルカルの候補者を決める党大会に立候補し、アメリカの選挙コンサルタントや広報アドバイザーと契約して、排外的なナショナリズムを訴えて「憂国の士」というイメージを打ち出した。この党大会で敗北したものの、政界からの抵抗が強くない事を確認し、弟のハシムと協力して大統領就任を目指して本格的な政界進出を決めたとされる。 大衆からの支持を集める事を目標とし、2004年にはインドネシア全国農民協会(インドネシア語版)の会長、およびプンチャック・シラットのインドネシア全国連盟の会長に就任した。さらに、ハシムや旧友のファドリ・ゾン(インドネシア語版)と共に2007年頃から政党の設立を構想し、2008年4月にグリンドラ党(英語版)を立ち上げ、モハマッド・ハッタの取り組んだ協同組合を拡大し、ネオリベラリズムと闘うことを標榜した。この際、選挙に政党として参加するための要件となる全国の地方支部設立にあたっては、全国農民協会を動員している。 同党初の全国選挙となった2009年インドネシア国民議会選挙(英語版)ではハシムが豊富なキャンペーン費用を投入し、「賢者ユドヨノ」や「国民の母メガワティ」というイメージに対し、「勇者プラボウォ」というイメージで大量のテレビCMを放送した。この戦略が功を奏し、グリンドラ党は4.6%の得票率を得て国会の第8党となった。 2009年インドネシア大統領選挙(英語版)では、かつて弾圧したメガワティとペアを組み、プラボウォは副大統領候補として立候補した。この時、メガワティを擁する闘争民主党は大統領選出馬のために国会議席数の20%以上を有する政党連合を形成する必要があり、グリンドラ党を必要としていた。交渉の結果、同年はメガワティをプラボウォが支持し、次回の2014年インドネシア大統領選挙ではメガワティが支持に回るという約束が書面で交わされている。
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