終戦の夜汽車「愛と死」立ちて読む
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評 言 |
八月十五日、「靖国」を考える。「英霊」を考える。はたして霊にすぐれた「霊」というものがあるのだろうか。敵も味方も、死ねば共に葬り、祀るべきではなかろうか。 いや菅原道真の天満宮、平将門を祀った神田明神でもあきらかなように、それが日本人の鎮魂の思想、宗教観だったはず。それさえも歪めた明治以降の「近代日本」だった。 この句は、かつて「愛と死」は隣合せだった時代に遡る。ここでは夜汽車の中で立ちながら読むという「立ちて読む」という措辞が、いやおうなしにリアリティを持って迫ってくる。夜汽車に揺れながら、愛と死を考えていた。そんな時代だった。この句は終戦日という直接的な表現を避けながら、時間を一気に昭和二十年八月にまで遡ってゆく。回想ではなく時間が遡ってゆくのだ。 この「愛と死」は宮本百合子と武者小路実篤に同名の小説があるが、これは武者小路実篤のそれであるという。 能美(よしみ)澄江は私たちの「鷗座」の前身、「鷗の会」創立以来の同人で、ここで取り上げるには、いささかためらいもあったが、諸作家の終戦・敗戦の句を読んた上で遜色なしとしてあえて取りあげた。 実作の上で終戦というのか、敗戦というのか、実作では五分五分だった。おおざっぱにいえば社会派・人生派は「敗戦日」、伝統派、戦後派は「終戦忌」が多かったが、私の句はなぜか「終戦日」ばかりだった。 とまれ、敗戦か終戦かをいう前に、日本を再び戦争の「出来る」国にしようという策謀だけは許してはなるまい。 敗戦か終戦かかの氷水 宇多喜代子 敗戦か終戦か蝉降りしきる 松田ひろむ うつむけば胴溶けて無し終戦日 熊谷愛子 少女の胸と揺れをともにし敗戦日 古沢太穂 花氷のなかに人の手終戦日 田川飛旅子 玉音を理解せし者前に出よ 渡辺白泉 ひとつずつ玉子にシール終戦日 小高沙羅 |
評 者 |
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備 考 |
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