紀伊國屋文左衛門
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きのくにや ぶんざえもん
紀伊國屋 文左衛門
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(栗原信充『肖像集』より)
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| 生誕 | 寛文9年〈1669年〉? 紀伊国有田郡湯浅町? |
| 死没 | 享保19年4月24日〈1734年5月26日〉? 武蔵国江戸深川 |
| 墓地 | 東京都江東区三好・成等院 |
| 記念碑 | 和歌山県有田郡湯浅町・勝楽寺 |
| 住居 | 武蔵国江戸八丁堀 |
| 別名 | 千山(俳号)、意荃 |
| 職業 | 材木商 |
| 活動期間 | 元禄年間 |
| 時代 | 江戸時代 |
| 子供 | 千泉、千江、文右衛門(亀山・明西)、新四郎 |
紀伊國屋 文左衛門(きのくにや ぶんざえもん、旧字体: 紀伊國屋 文󠄁左衞門、寛文9年〈1669年〉? - 享保19年4月24日〈1734年5月26日〉?)は、日本の江戸時代、元禄期に活躍した豪商である。略して「紀文」(きぶん)[注釈 1]と呼ばれる。俳号は千山。「紀文大尽」として講談や川柳などの題材となったことで知られるが、その実像については生没年、本姓、出身地などを含めて未確定の点が多い。
生涯
出自
紀文の出身地としては紀伊国(和歌山県)有田郡湯浅町別所が知られており[1][2]、同地の勝楽寺には松下幸之助によって「紀伊国屋文左衛門之碑」が建立されている[3][2]。しかし湯浅町に菩提寺などの記録は確認されておらず、出身地伝説があるに留まる[2]。「紀伊国屋」という屋号から紀伊国出身説を支持する見解もある一方[4]、慎重説もある[5][6]。紀文と紀伊国の関係を最初に記述した山東京伝『近世奇跡考』(文化元年〈1804年〉)では紀文の父が紀伊国熊野から江戸に出たとするが、根拠ははっきりしない[6]。湯浅町には栖原角兵衛というやはり江戸に出て成功した商人がいたため、彼の伝承が紀文の逸話に取り込まれたという説も唱えられている[5]。
本姓は『名人忌辰録』が五十嵐氏とするが、追記に本姓は別所を真とすとある[1][7][5]。この記述の根拠も不明であるが[5]、紀文の息子・千泉と千江が俳画に別所姓を自署していることから別所姓が正しいとし、それは出身地の別所を姓としたものだという説がある[1][4]。
生年については成等院(東京都江東区三好)の過去帳に享保3年(1718年)に54歳で没したとあることから逆算し寛文5年(1665年)とする説や[2]、『名人忌辰録』の享保19年(1734年)66歳没から逆算し寛文9年(1669年)とする説などがあるが[7]、確定することができない[6]。
政商としての成功
紀文の江戸進出については、『近世奇跡考』に見える紀文の父のときに江戸へ出てきたというものや[6]、後述蜜柑船伝説が知られるほか、文化3年(1805年)刊行の『墨水消夏録』が紀州熊野の同郷人と3人で連れだって江戸へ出てきたという話を載せている[8][4][9]。
紀文没後最も早くに紀文について記した『江戸真砂六十帖』によれば、紀文は八丁堀に住み御用材の材木商として成功を収めた[6][10]。『近世奇跡考』では八丁堀三丁目の一町すべてが紀文の屋敷であったとされる[11][6]。材木商の仕事として特筆されるものに、元禄11年(1698年)の上野寛永寺根本中堂造営用材調達があった[12][13][14][6]。これによって彼が得た利益は50万両とも言われる[12][13][6]。紀文は静岡の材木商の松木新左衛門・郷蔵兄弟と協力し、元禄5年(1692年)以降計15年間にわたって駿州井川山・遠州千頭山から材木の伐り出しを行った記録がある[10]。また元禄14年(1701年)に香取神宮の用木60本を納めた旨の記録の写しも内閣文庫にある[10]。柳亭種彦の『長者鑑紀文』などの創作では明暦の大火に際して材木を買い占めて大きな利益を得たという逸話が語られるが、これは時代が合わないように史実ではなく、河村瑞賢の逸話を取り入れたものである[15][16][17]。
『江戸真砂六十帖』では紀文が銭座を請負い品質の悪い貨幣を発行したことも記述されている[18][19][6]。これは元禄10年(1697年)から宝永元年(1704年)にかけての寛永通宝のことであるとも[18]、宝永5年(1708年)の大銭(宝永通宝)のことであるともされる[20][21]。紀文が貨幣発行にまで関与することができた背景には老中・阿部正武(忍藩主)のような幕府有力者との密接な関係があったと考えられ、阿部家の記録である『公余録』には紀文が元禄16年(1703年)に秩父の銅山見分を行ったことが見える[10][21]。『諸聞集』には阿部家から紀文は晩年に至っても年間米50俵・金50両を受け取っていたと記録されているように、大名貸を行っていたことも大名と紀文を結びつける要因となったとみられる[21]。当時の勘定奉行・荻原重秀は『折たく柴の記』で商人との結託を批判されている人物であり、紀文との癒着もあったとみられることが多い[22][23]。また側用人・柳沢吉保とも結びついたとされる[23][9]。
死去
宝永末年か正徳のころ(1710年ごろ)に紀文は材木商を廃業した[21]。その原因として吉原での放蕩や江戸の大火による類焼と言われることがあるが、信を置きがたい[24]。宝永6年(1709年)に将軍・徳川綱吉が没し、新将軍徳川家宣のもとで新井白石が正徳の治を開始し、緊縮財政に舵を切ったため、材木商が大きな利益を得る機会が失われてしまったことが廃業の原因となったとみられる[21]。また前述した貨幣鋳造事業が、その品質の悪さのため通用停止となって大きな損失を出したことも一因となったと言われる[24][20][25][21]。
『江戸真砂六十帖』では「段々悪く成て」、『近世奇跡考』には「家おとろえ」と零落したかのように書かれるが、『吉原雑話』では浅草寺内慈昌院への引っ越しにあたり家財の運搬に18日もかかったとあるように、なおもかなりの財産を有したとされる[24][26]。また『諸聞集』によるとさらに深川八幡の一の鳥居の辺りへ引っ越して剃髪し意荃(いせん)と号したといい、このときもまだ金40箱を所有していたという[24][26]。晩年の紀文は貧困にあえぐみじめな暮らしであったと言われることがあるが、実際には店賃収入や貸金の利息収入によって悠々自適の生活を送っていたとみられる[24][21][10]。
紀文の没年については、菩提寺・成等院の位牌・墓碑銘が「本覚院還誉到億西岸信士 享保三(1718年)戌年正月二日」とする一方で、過去帳は「帰性融相信士 享保十九年(1734年)寅年四月二十四日」[注釈 2]とするため、両説の対立がある[27][6]。戒名が立派であることから前者を支持する説もあるが、寛延ごろ成立の『江戸真砂六十帖』が7、8年前まで長命であったと記録していることから享保19年説が有力となっている[27][6]。
なお田村栄太郎は菩提寺の記録に見える延宝6年(1678年)に没した「文左衛門父」を初代紀伊国屋文左衛門、享保3年に死去したのが2代文左衛門、同19年に死去したのが3代文左衛門という説を唱えている[7]。これらの没年以外にも『名人忌辰録』が記録している元禄6年(1693年)8月というものもある[27]。
人物
俳人としては宝井其角に師事し、千山と号した[28][11]。また息子たちも千泉と千江と号した俳人だったという[27]。
『武江年表』安永4年(1775年)条には、紀文の子・文右衛門は築地飯田町に住し、俳号亀山、剃髪して明西と名乗り同年に六十余歳で没したので紀文の子孫は断絶したとある[29]。
二男・新四郎は宝永2年(1705年)、保土ヶ谷宿本陣6代苅部清兵衛の入り婿になり、持参金で苅部家の借財を返済したことが苅部家の記録に見える[30][31][29][10]。
紀文の寄付としては、『江戸真砂六十帖』に江の島の石垣を奉納したことが見える[8][6][10]。元禄16年(1703年)には深川永代寺の出開帳に十両を寄進した記録がある[10]。また富岡八幡宮の神輿3基のうち1基が紀文の寄進したものであったという[32]。吉原の水道尻という地名は、異説もあるが紀文が井戸の少なかった当時私財を投じて吉原に井戸を掘削したことに由来するという[32]。
紀文には一晩千両かかると言われる吉原の一人での買い切り、すなわち大門の閉門を行ったと言われるほか[33][34]、以下のような豪遊の逸話が伝えられる。
- 吉原の揚屋で小粒金の豆まきをした(『江戸真砂六十帖』[6][10]『近世奇跡考』[11])。
- 奈良屋茂左衛門が吉原の茶屋で雪見をしていると聞いた紀文は、金子3百両を雪の中に撒くことで、それを拾う人々によって雪を踏み消させた(『洞房語園考異』)[33][35]。
- 紀文は友人から梯子の上り口の板を外さなければ通れないほどの大きな饅頭を贈られ、それを割ってみると中から通常の大きさの饅頭が現れ、これは特注の釜で70両をかけてこしらえたものであった。紀文がその返礼として持参した蒔絵の小箱を開けると小カニ100匹が這い出てきて、その甲羅には金で女郎と客の紋が描かれていた(『吉原雑話』)[33]。
- 正真正銘の初鰹を賞味するため、江戸中の初鰹の買い占めを行い、その中の一本だけを食した(『吉原雑話』)[33]。奈良屋茂左衛門にも類似の話として、友人のもとに蕎麦2箱だけを持参したので、少ないと思ったその友人が蕎麦屋に注文しようとすると、奈良茂が周辺の店の蕎麦を買い占めていたので売り切れであったというものがある[33][34]。
蜜柑船伝説
文左衛門が20代のある年、紀州は驚くほどミカンが大豊作だった。収穫されたミカンを江戸に運ぼうとしたが、その年の江戸への航路は嵐に閉ざされていた。江戸へ運べなくなり余ったミカンは上方商人に買い叩かれ、価格は暴落した。当時江戸では毎年鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」があった。この祭りでは、鍛冶屋の屋根からミカンをばら撒いて地域の人に振舞う風習があったが、紀州から船が来ない事でミカンの価格は高騰していた。
紀州では安く、江戸では高い。これに目をつけたのが文左衛門だった。早速文左衛門は玉津島明神の神官で舅の高松河内から大金を借りてミカンを買い集め、家に残ったぼろい大船を直し、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋に船出した。大波を越え、風雨に耐えて何度も死ぬ思いをしながら、文左衛門はついに江戸へたどり着く事ができた。この時の様子が「沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船」とカッポレの唄に残った。
ミカンが不足していた江戸でミカンは高く売れて、嵐を乗り越えて江戸の人たちの為に頑張ったと、江戸っ子の人気者になった。大坂で大洪水が起きて伝染病が流行っていると知った文左衛門は、江戸にある塩鮭を買えるだけ買って先に上方で「流行り病には塩鮭が一番」と噂を流し上方に戻った。噂を信じた上方の人々は我先にと塩鮭を買い求め文左衛門が運んできた塩鮭は飛ぶように売れた。紀州と江戸を往復し大金を手にした文左衛門は、その元手で江戸に材木問屋を開く。こうして文左衛門はしがない小商人から豪商へと出世、富と名声を掴んだ。
この伝説は紀文没後最も早くに書かれた資料である『江戸真砂六十帖』には見えない逸話である[6][10]。竹内誠は、この伝説は幕末に刊行された二世為永春水の小説『黄金水大尽盃』によって作られ広まったものとしている[6]。邦光史郎はみかんが不作により高騰した場合であっても1籠半で1両という値段であり、船1隻で巨万の富を築くのはかなり難しいとして現実的ではないとしている[36]。
紀伊國屋文左衛門を扱った作品
小説
漫画
映画
- 『荒海に挑む男一匹 紀の国屋文左衛門』(1959年、監督・原案:渡辺邦男、主演:高田浩吉)
テレビドラマ
- 『水戸黄門』(TBS / C.A.L)
- 1000回記念スペシャル(2003年12月15日、演:森繁久彌)
- ナショナル劇場50周年記念特別企画スペシャル(2006年3月13日、演:長門裕之)
- 第37部 第23話「次期将軍を狙った野望 -水戸・江戸-」(2007年9月17日、演:中村敦夫)
- 2015年スペシャル(2015年6月29日、演:津川雅彦)
浪曲
- 1934.8初回発売「紀ノ国屋文左衛門」梅中軒鶯童。リーガル[37]
歌謡曲
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 4 上山 1939, pp. 10–19.
- 1 2 3 4 邦光 1975, pp. 200–203.
- ↑ “紀伊国屋文左衛門碑”. 湯浅町観光公式ホームページ. 2026年8月26日閲覧。
- 1 2 3 田村 1960, pp. 204–206.
- 1 2 3 4 5 邦光 1975, pp. 207–209.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 竹内 2024, pp. 84–89.
- 1 2 3 4 田村 1960, pp. 202–204.
- 1 2 上山 1939, pp. 57–63.
- 1 2 邦光 1975, pp. 221–223.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 江戸東京博物館友の会広報部会 編「竹内誠館長記念講演「紀伊国屋文左衛門の実像」」『えど友』第68号、江戸東京博物館友の会、1-2頁、2012年7月1日。
- 1 2 3 田村 1960, pp. 232–237.
- 1 2 上山 1939, pp. 94–103.
- 1 2 宮本 1970, pp. 176–178.
- ↑ 邦光 1975, pp. 223–224.
- ↑ 上山 1939, pp. 19–23.
- ↑ 田村 1960, pp. 211–213.
- ↑ 宮本 1970, pp. 168–170.
- 1 2 上山 1939, pp. 149–156.
- ↑ 田村 1960, pp. 225–226.
- 1 2 宮本 1970, pp. 178–181.
- 1 2 3 4 5 6 7 竹内 2024, pp. 89–91.
- ↑ 田村 1960, pp. 227–230.
- 1 2 宮本 1970, pp. 175–176.
- 1 2 3 4 5 上山 1939, pp. 167–180.
- ↑ 邦光 1975, pp. 229–230.
- 1 2 邦光 1975, pp. 230–233.
- 1 2 3 4 上山 1939, pp. 266–281.
- ↑ 上山 1939, pp. 190–195.
- 1 2 竹内 2024, pp. 92–93.
- ↑ 大島延次郎『本陣の研究』P166.167、吉川弘文館、1955年
- ↑ 『有鄰』第465号(平成18年8月10日)
- 1 2 上山 1939, pp. 187–190.
- 1 2 3 4 5 上山 1939, pp. 121–140.
- 1 2 竹内 2024, pp. 82–84.
- ↑ 邦光 1975, pp. 225–227.
- ↑ 邦光 1975, pp. 203–207.
- ↑ 『近代日本芸能年表上』p.41
参考文献
- 上山柑翁『実伝紀伊国屋文左衛門』明治書院、1939年4月30日。doi:10.11501/1255413。(
要登録) - 田村栄太郎「紀伊国屋文左衛門」『実録小説考』雄山閣、1960年11月20日。
doi:10.11501/2992229。(
要登録) - 宮本又次「紀伊国屋文左衛門」『豪商』日本経済新聞社〈日経新書〉、1970年11月20日。
doi:10.11501/12001547。(
要登録) - 邦光史郎「紀伊国屋文左衛門」『豪商と篤農』小学館〈人物日本の歴史〉、1975年10月31日。
doi:10.11501/12211278。(
要登録) - 竹内誠『元禄人間模様』《紀文と奈良茂》吉川弘文館、2024年7月20日。 ISBN 978-4-642-07645-6。
関連項目
外部リンク
紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)
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「薄桜記」の記事における「紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)」の解説
遊蕩大尽と噂される商家の大旦那。27歳。明暦の大火の際に木材の買い占めをして巨万の富を成した材木問屋の主人。
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