奈良屋茂左衛門とは? わかりやすく解説

ならや‐もざえもん〔‐モザヱモン〕【奈良屋茂左衛門】

読み方:ならやもざえもん

[?〜1714]江戸中期豪商江戸深川材木商日光東照宮修築巨富積み紀国屋文左衛門並び称された。資産継いだ子が吉原豪遊した話は有名。


奈良屋茂左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/09/22 04:32 UTC 版)

奈良屋 茂左衛門(ならや もざえもん)は、江戸時代中期の江戸材木商である。

来歴

通称奈良茂(ならも)。姓は神田(かんだ)。4代目勝豊が知られ、勝豊を初代とする数え方もある。奈良屋は寛永年間1624年 - 1644年)以降、代々江戸・深川霊岸島(れいがんじま)に住んだ。

『江戸真砂六十帖』に拠れば、初代勝儀2代目勝実3代目豊勝までの茂左衛門は、裏店住いの車夫ないしは小揚人足などをして言われるが、4代目が大成した後の由緒書きで誇張が含まれるとも指摘される。

4代目勝豊寛文2年(1662年)? - 正徳4年6月13日1714年7月24日))は、2代目茂左衛門の子。幼名は茂松、あるいは兵助。号は安休。材木問屋の「宇野屋」に奉公し、『江戸真砂六十帖』に拠れば28歳で独立。材木商として明暦の大火日光東照宮の改築、将軍綱吉の寺社造営などを契機に御用商人となり、一代で急成長したという。吉原遊女を身請けするなど、紀伊國屋文左衛門に対抗して放蕩の限りを尽くしたという。その後は材木商を廃業し、家屋敷を買い集めて地代収入を得る。

勝豊の子である5代目広璘元禄8年(1695年) - 享保10年9月3日1725年10月8日))と、分家した弟・勝屋の代に遊興で家産を使い果たし同家の経営は衰退したという。

6代目勝屋は5代目の兄広璘の没後に跡を継ぎ細々と足袋屋をしていたようだが、それでも1744年(延享元年)には幕府から買米を命じられており、7代目の頃にも江戸町会所で有力商人に揚げられている。子孫は、大正年間(1910年代 - 1920年代)まで千住質屋を営んでいたと言われる。

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