精華中学校の創立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/06 14:04 UTC 版)
「精華町立精華中学校」の記事における「精華中学校の創立」の解説
戦後の学制改革により、新制中学校が設立されることとなった。地域にあって、家から通う新制中学校は、戦前の精華高等小学校を連想させた。村の中心的世代である40代、50代の多くが精華高等小学校卒であり、二度目の組合設立の大きな牽引力となった。それに、組合は川西村・山田荘村・相楽村の3村で組むことになり、精華高等小学校と同じ範囲であったため、新制中学校は「精華」の名前を継承することとなった。戦後の学制改革により、学校教育を律するのは戦前の教育勅語から日本国憲法と教育基本法に変わったが、「精華」と言えば、かつて地域の村々が協力し、共同で運営した学校の名前であったため、新制中学校にも採用されることとなった。 1949年2月、京都府自治制度調査委員会によって出された町村合併の試案によると、相楽郡の合併の組み合わせはいずれも新制中学校の区域に基づいたものであった。相楽郡北西部では精華中学校の区域である川西村・山田荘村・相楽村の3村の合併が検討された。最終的に相楽村は木津町との合併を決定し、川西村・山田荘村の2村合併となったが、ともに精華中学校を運営している仲間の村々ということが強く意識され、1951年4月、精華中学校の名を由来とする精華村が誕生することとなった。それに伴い、組合立精華中学校は精華村立精華中学校へ改称し、木津町と合併した相楽村の生徒は木津中学校へ通うこととなった。 1952年4月、精華中学校に附設の精華村立精華家政学園を開校した。翌年4月、精華家政学園は精華女子高等技芸学院に改称した。 1955年4月、町制施行に伴い、精華村立精華中学校は精華町立精華中学校へ改称した。 1962年3月、精華中学校に附設していた精華女子高等技芸学院は廃校となった。
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