米西・米比戦争期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 03:25 UTC 版)
「ジョン・パーシング」の記事における「米西・米比戦争期」の解説
1898年には少佐に任ぜられて米西戦争に参加。義勇兵を率いてキューバに遠征し、サン・ファン丘の戦いで活躍する。1899年から1903年にかけては米比戦争に従軍するためフィリピンに赴き、暴動鎮圧等の功績を立てた。なお、1901年にはいったん大尉に戻されている。 1903年、アメリカに戻ったパーシングの目覚しい軍功に報いるため、セオドア・ルーズベルト大統領は准将昇進を提案するが、軍部の反対にあってこれは実現しなかった。 その後、陸軍大学等を経て、1905年には大使館付き駐在武官として東京に駐在。3月から9月まで、日露戦争の観戦武官として、第一軍(黒木司令官)に従軍した。同年には、ワイオミング州選出の上院議員フランシス・F・ウォーレンの娘と結婚しており、このことがその後のパーシングのキャリアにとって有利に働くことになる。 同年秋にはアメリカに戻り、一気に三階級を飛び越して准将に昇進。このことは軍内部でも反感を買い、軍人としての能力ではなくウォーレン上院議員のコネによって昇進したのだと揶揄された。その後、バルカン半島勤務を経て、1909年から1912年まで再びフィリピン勤務となり、南部ミンダナオ島のモロ州総督を務めた(モロの戦い(英語版))。 なおモロ州総督時代、パーシングが捕らえたムスリム民兵49人を、イスラム教で不浄とされる豚の血に浸した銃弾で射殺したという俗説がある。歴史学者は史実ではないと否定的であるが、ドナルド・トランプ米大統領が2017年8月にスペインで起きたテロ事件直後、イスラム過激派に対する有効なテロ防止策として取り上げた。
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