米国での飛行歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:38 UTC 版)
「フランク・チャンピオン」の記事における「米国での飛行歴」の解説
1911年8月にロサンゼルス–ロングビーチ間を4分32秒で飛行。当時の全米のスピード記録を更新した。しかし、翌日の洋上飛行では岸から100フィートの地点に落下。海水浴客や救助員が泳いで近寄り、チャンピオンを座席に固定していたストラップを緩め、かろうじて死を免れた。9月にはモアザン単葉機でリバーサイドからロングビーチまでの64マイルを55分で飛行。これは当時、太平洋沿岸の最長飛行記録であった。同年、アール・ドーアティーに飛行を指導。航空専門誌では「キャンディ・キッド」と呼ばれ、ブレリオ機での15分間の飛行で1,500ドルを稼いだ。 1911年12月にカルブレイス・ロジャースがロングビーチに着陸した際は、最終レグでドーアティーらと護衛飛行を務めた。また、ドーアティーらとともに、飛行競技会を認定するアメリカ航空クラブのパイロットライセンスを取得。ロングビーチで初、全国では86人目であった。周囲の協力もあり、チャンピオンとドーアティーはホテル・バージニアの地階で飛行機を造り、観衆を楽しませた。 1912年1月、チャンピオンはウサギ狩りの最中に誤って自分の足を銃で撃ち、切断も免れないほどの重傷を負う。手術を受けたものの完治はしなかったが、6月にはエキシビションで妙技を披露してロングビーチの数千人を感動させた。この年、アーカンソー州ジョーンズボロで行われた航空トーナメントにも参加。当時、こうしたイベントは一般的になっており、多くの観衆が集まった。 1913年にドーアティーとともにブレリオ XI型の飛行機を造り、アイオワ州ウォータールーの飛行機会社と契約。1914年には航空関連の会社をカンザス州オーバーランドパークに設立し、1916年にこの会社をイリノイ州シカゴに移した。1915年には3名のパイロットでリエージュの戦いを模した曲技飛行を披露し、観客を大いに喜ばせた。その後、キャサリン・スティンソンらとともにアジアで曲技飛行を行い、日本では飛行学校設立のために滞在を延ばすことになった。
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