篤志家としての経歴
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後年は篤志家としての活動が目立った。1913年(大正2年)には舞鶴町立明倫小学校のために舞鶴町に1万円を寄付し、1922年(大正11年)にも教育資金として舞鶴町に1万円を寄付した。1923年(大正13年)には京都府立工業学校(峰山工業学校)を設立するために京都府に200円を寄付し、見樹寺など8カ寺の無縁仏に対する施餓鬼料として1,800円を寄進した。これらの結果、1926年(大正15年)には有本嘉兵衛とともに舞鶴町議会から舞鶴町有功者の推薦を受けている。 北丹後地震があった1927年(昭和2年)には舞鶴中学校の建設費として京都府に1万円を寄付。また町立舞鶴図書館の敷地購入費として舞鶴町に21,365円を寄付した。舞鶴税務署の建物を転用した町立舞鶴図書館は、地方には珍しい立派な図書館であるとして文部省から選奨されている。有本嘉兵衛とともに財団法人有本積善社を設立し、10万円を舞鶴町に寄付した。1936年(昭和11年)には舞鶴公会堂の建設費として舞鶴町に約13万円を寄付した。有本は1913年に表千家に入門して茶道に精進していたが、舞鶴町長の川北正太郎が有本に泣きついたことから、仕方なく愛用していた茶道具や書画を売却して舞鶴公会堂の建設資金を捻出したのだった。1942年(昭和17年)には紀元二千六百年記念行事として舞鶴町が計画した舞鶴彰古館の建設費23,000円を寄付した。 1927年(昭和2年)には紺綬褒章を授章し、1929年(昭和4年)には緑綬褒章を受章した。1944年(昭和19年)1月10日、兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)の別邸にて死去した。数え年85歳だった。
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