篤志家としての経歴とは? わかりやすく解説

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篤志家としての経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 15:53 UTC 版)

有本国蔵」の記事における「篤志家としての経歴」の解説

後年篤志家として活動目立った1913年大正2年)には舞鶴町明倫小学校のために舞鶴町1万円寄付し1922年大正11年)にも教育資金として舞鶴町1万円寄付した1923年大正13年)には京都府工業学校峰山工業学校)を設立するために京都府200円を寄付し、見寺など8カ寺の無縁仏対す施餓鬼料として1,800円を寄進した。これらの結果1926年大正15年)には有本兵衛とともに舞鶴町議会から舞鶴町有功者の推薦受けている。 北丹後地震があった1927年昭和2年)には舞鶴中学校建設費として京都府1万円寄付。また町立舞鶴図書館敷地購入費として舞鶴町21,365円を寄付した舞鶴税務署建物転用し町立舞鶴図書館は、地方には珍しい立派な図書館であるとして文部省から選奨されている。有本兵衛とともに財団法人有本積善社設立し10万円を舞鶴町寄付した1936年昭和11年)には舞鶴公会堂建設費として舞鶴町に約13万円寄付した有本1913年表千家入門し茶道精進していたが、舞鶴町長の川北正太郎有本泣きついたことから、仕方なく愛用していた茶道具書画売却して舞鶴公会堂建設資金捻出しのだった1942年昭和17年)には紀元二千六百年記念行事として舞鶴町計画した舞鶴古館建設費23,000円を寄付した1927年昭和2年)には紺綬褒章授章し、1929年昭和4年)には緑綬褒章受章した1944年昭和19年1月10日兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)の別邸にて死去した数え年85歳だった。

※この「篤志家としての経歴」の解説は、「有本国蔵」の解説の一部です。
「篤志家としての経歴」を含む「有本国蔵」の記事については、「有本国蔵」の概要を参照ください。

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