篠原出羽守家(別家)
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別家の篠原出羽守家(一孝系篠原家。家紋は左三つ巴、のち左二つ巴)は、祖を弥助長重としながらも初代を一孝とする。高野山にある前田利長の五輪塔(三番碑)背後には「芳春院様内」とされる6基の小五輪塔が存在するが、高野山天徳院の説明によると、そのうち5基は一孝(栄錦院殿郷岩道本大居士)と長男である篠原主膳一由(貞秀)と夫人(前田利家の娘の保智)、次男の篠原出羽守一次(隼人、天澄院殿惣月英寒大居士)夫妻のものであり、その中には芳春院と玉泉院(利長の正室)が施主となっているものもある、ということである。一孝には男子が4人いたが、三男の重一(監物)以外はみな早世し、家は断絶した。長男の貞秀は松平忠直に乱暴を働き配流され、代わって家督を継いだ次男の出羽守一次(11250石)の家も自身と子の岩松が早世したため、「加賀八家」制度ができる前に断絶した。結局、一孝の子孫で続いたのは三男の重一(監物)の家だけとなった。幕末に東奔西走して藩政を担った家老・篠原一貞(版籍奉還後は前田慶寧藩知事の下で大参事となる)は、この家の出身である。 藩政期、篠原家は、本家・別家は「加賀八家」同格の家として、本家の2つの分家と合わせ、4家で前田家に仕えた。
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