第3期勧学会
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ところが、長元年間に入ると突如として従来学生らに招かれる立場であった比叡山側からの呼びかけによって再興される事となる。この時随願寺にて再興された勧学会に参加した菅原定義(『更級日記』に登場する「兄」として著名)の詩序(『本朝続文粋』)によれば、天台座主慶命の呼びかけであったという。慶命は第2期勧学会再興の中心であった藤原有国の甥(兄の子)で、長元元年(1028年)に天台座主に補されて同年間中は一貫してその地位にあった。従ってかつての勧学会に関わりがあったと考えられている。 この時の勧学会は末法思想の高まりなどもあって比較的長期にわたって続けられ、断続的であるが勧学会関係の出来事も確認できる。永承元年(1046年)に大宰権帥となった藤原経通は、安楽寺の僧である基円(菅原定義の弟)と図って安楽寺で二季勧学会を始めている。経通は文芸的には知られていないものの、勧学会の参加者であった可能性はある。さらに延久3年3月15日(1071年4月17日)に雲林院で開催された勧学会は、『勧学会之記』として記録が編纂された。なお、この時藤原成季の提案により勧学会用の『法華経』を予め整備したという(『朝野群戴』)。承暦4年(1080年)3月29日には六波羅蜜寺で勧学会が開かれているが、以後同寺が勧学会会場として確定する一方で、毎年3月もしくは9月の15日と定められていた開催日が記録上初めて破られており、以後開催日の遅延が続く事になる。以後、寛治2年(1088年)、天永2年(1111年)及び3年(1112年)、永久4年(1116年)及び5年(1117年)に六波羅蜜寺で開催された記録が残されている(記録が残されていない年も中絶したとする記録がないため、続行されていたと考えられている)。だが、次第に内容が形式化していった事は否めず、旧儀が再興されたと言われている延久3年の勧学会でも3月15日の未の刻より亥の刻までと、本来の3日(実質2日)がかりの行事がわずか半日で終了している(形式化が進んだ以後の勧学会は更に時間も内容も削られていったと考えられている)。また、参加者も先達と呼ばれる経験者、しかもかつては学生でも今では式部大輔や大学頭、文章博士といった学生たちから見れば「雲の上」的存在の人々が多くを占め、結学生と呼ばれた学生参加者が少なくなったために円滑な世代交代が行われにくくなった。やがて保安3年(1122年)3月某日に六波羅蜜寺で行われた勧学会を最後に以後記録上から姿を消すことになった。
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