第3期勧学会とは? わかりやすく解説

第3期勧学会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/23 05:29 UTC 版)

勧学会」の記事における「第3期勧学会」の解説

ところが、長元年間に入ると突如として従来学生らに招かれる立場であった比叡山側から呼びかけによって再興され事となる。この時随願寺にて再興され勧学会参加した菅原定義(『更級日記』に登場する「兄」として著名)の詩序(『本朝続文粋』)によれば天台座主慶命の呼びかけであったという。慶命は第2期勧学会再興中心であった藤原有国の甥(兄の子)で、長元元年1028年)に天台座主補され同年間中一貫してその地位にあった。従ってかつての勧学会関わりがあったと考えられている。 この時の勧学会末法思想高まりなどもあって比較長期わたって続けられ断続的であるが勧学会関係の出来事確認できる永承元年1046年)に大宰権帥となった藤原経通は、安楽寺の僧である基円(菅原定義の弟)と図って安楽寺二季勧学会始めている。経通は文芸的には知られていないものの、勧学会参加者であった可能性はある。さらに延久3年3月15日1071年4月17日)に雲林院開催され勧学会は、『勧学会之記』として記録編纂された。なお、この時藤原成季提案により勧学会用の『法華経』を予め整備したという(『朝野群戴』)。承暦4年1080年3月29日には六波羅蜜寺勧学会開かれているが、以後同寺が勧学会会場として確定する一方で毎年3月もしくは9月15日定められていた開催日記録初め破られており、以後開催日遅延が続く事になる。以後寛治2年1088年)、天永2年1111年)及び3年1112年)、永久4年1116年)及び5年1117年)に六波羅蜜寺開催され記録残されている(記録残されていない年も中絶したとする記録がないため、続行されていたと考えられている)。だが、次第内容形式化ていった事は否めず、旧儀が再興されと言われている延久3年勧学会でも3月15日未の刻より亥の刻までと、本来の3日実質2日)がかりの行事がわずか半日終了している(形式化進んだ以後勧学会は更に時間内容削られていった考えられている)。また、参加者先達呼ばれる経験者、しかもかつては学生でも今では式部大輔大学頭文章博士といった学生たちから見れば雲の上」的存在人々多く占め、結学生呼ばれた学生参加者少なくなったために円滑な世代交代が行われにくくなった。やがて保安3年1122年3月某日六波羅蜜寺行われた勧学会最後に以後記録上から姿を消すことになった

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