第1の哨戒 1943年11月 - 1944年1月とは? わかりやすく解説

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第1の哨戒 1943年11月 - 1944年1月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 16:24 UTC 版)

アスプロ (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1943年11月 - 1944年1月」の解説

11月24日アスプロ最初哨戒東シナ海台湾近海および先島諸島方面向かった11月28日ミッドウェー島燃料補給した後、哨区に到着12月15日には、1隻のタンカーと2隻の貨物船、および2隻の護衛艦から成る日本船団発見したアスプロタンカー向けて魚雷発射し、それは命中したが、大きな損傷与えるには至らなかった、と判断された。2日後12月17日夜、アスプロは再び攻撃機会に恵まれた輸送船15隻、護衛艦2隻で編成された第121船団発見しアスプロ2226分に大型タンカーとそれに隣接して航行している貨物船艦尾発射管を向け、魚雷発射魚雷は日鈴丸日産汽船、5,396トン)に2本が向かってきたが回避された。護衛駆逐艦汐風が反撃出て爆雷20投下したが、アスプロ逃げ切ることが出来たアスプロ魚雷を1本だけ残して哨区を徹した1944年1月1日アスプロ39日間行動終えてミッドウェー島帰投。後に真珠湾回航された。アスプロは3隻25,600トン戦果挙げた主張したが、戦後の調査はいずれ認定されなかった。ところで、スティーヴンソン艦長はこの哨戒中に目の病気患ってしまい、軍務支障が出るようになったH・Cスティーヴンソン帰投後に目の検査を受け、その結果海上勤務から退くことを命じられた。スティーヴンソン艦長は、後任艦長として弟であるウィリアム・A・スティーヴンソンアナポリス1934年組)を推薦。この要望受理されW・Aスティーヴンソン1月15日付でアスプロ艦長着任した

※この「第1の哨戒 1943年11月 - 1944年1月」の解説は、「アスプロ (潜水艦)」の解説の一部です。
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