第1の哨戒 1943年11月 - 1944年1月
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「アスプロ (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1943年11月 - 1944年1月」の解説
11月24日、アスプロは最初の哨戒で東シナ海、台湾近海および先島諸島方面に向かった。11月28日にミッドウェー島で燃料を補給した後、哨区に到着。12月15日には、1隻のタンカーと2隻の貨物船、および2隻の護衛艦から成る日本船団を発見した。アスプロはタンカーに向けて魚雷を発射し、それは命中したが、大きな損傷を与えるには至らなかった、と判断された。2日後の12月17日夜、アスプロは再び攻撃機会に恵まれた。輸送船15隻、護衛艦2隻で編成された第121船団を発見し、アスプロは22時26分に大型タンカーとそれに隣接して航行している貨物船に艦尾発射管を向け、魚雷を発射。魚雷は日鈴丸(日産汽船、5,396トン)に2本が向かってきたが回避された。護衛の駆逐艦汐風が反撃に出て、爆雷を20発投下したが、アスプロは逃げ切ることが出来た。アスプロは魚雷を1本だけ残して哨区を徹した。1944年1月1日、アスプロは39日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。後に真珠湾に回航された。アスプロは3隻25,600トンの戦果を挙げたと主張したが、戦後の調査ではいずれも認定されなかった。ところで、スティーヴンソン艦長はこの哨戒中に目の病気を患ってしまい、軍務に支障が出るようになった。H・C・スティーヴンソンは帰投後に目の検査を受け、その結果、海上勤務から退くことを命じられた。スティーヴンソン艦長は、後任艦長として弟であるウィリアム・A・スティーヴンソン(アナポリス1934年組)を推薦。この要望は受理され、W・A・スティーヴンソンは1月15日付でアスプロ艦長に着任した。
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