第六十六銀行時代
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以上の経緯から第六十六国立銀行は1897年7月1日、引き続き尾道に本店をおく普通銀行の「第六十六銀行」として再発足した。設立時の資本金は1,000,000円に増額され、1901年末時点で払込金は508,000円にのぼった 。 第一次世界大戦中の好況に際しては、県下で比較的規模の大きかった当行は積極的な業務拡張政策をとったが、大戦後の不況に見舞われると県下の他行との合併が模索されるようになった。1919年(大正8年)夏以降に広島市を本拠地とする(旧)廣島銀行・広島商業銀行の合併工作が表面化すると、当行もこれへの参加を決定し、翌1920年春には3行合併の契約が結ばれた。その後、これとは別個に合併論議が持ち上がっていた三次貯蓄銀行・比婆銀行・角倉銀行・双三貯蓄銀行の備北4行が新たに合併契約に参加することとなり、同年6月30日、当行を含む7行の新立合併によって広島に本店をおく「(旧)藝備銀行」が発足した。これにより当行は10月1日に解散し、当行の本店は藝備銀行の尾道支店として継承された。 尾道の第六十六国立銀行に遅れて(1878年)設立された広島の第百四十六国立銀行(旧廣島銀行の前身)は、設立当初の資本金が第六十六国立銀行の半分にも満たない80,000円であり経営も不安定であったが、日清戦争以降、軍都として急成長を遂げ都市インフラの整備も進んだことを背景に、預金額などで第六十六銀行の尾道本店を次第に圧倒するようになっていた。新銀行の本店が尾道ではなく広島におかれたことは、県下の金融界における尾道と広島の地位が逆転したことを象徴する出来事となった。これ以後、尾道の商工業界は尾道唯一の本店銀行(1926年以降)となった尾道銀行およびその後身である備南銀行をいっそうバックアップするようになった。
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