第一次・二次世界大戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:01 UTC 版)
「硫黄島 (東京都)」の記事における「第一次・二次世界大戦前」の解説
島北部には元山部落、東部落、西部落、南部落、北部落、千鳥部落の6つの集落があり、元山部落には硫黄島尋常小学校と硫黄島神社が置かれ、島の中心となっていた。また、島には父島から派遣された警察官1名が駐在していた。島南部は海軍省によって要塞地帯に指定され、一般島民の立ち入りが制限されていた。元山の台地は土丹岩と呼ばれる凝灰岩から出来ており、貴重な現地調達石材であった。 当時の島内の産業は、硫黄採取鉱業、サトウキビ、コカ、レモングラス等の栽培農業、近海沿岸漁業等で、これらの産業は「硫黄島産業株式会社」が取り仕切っており、島民の大半は同社に直接、間接的につながっていた。島内での穀物生産は困難のため、米は日本列島本土からの移入に頼っていた。医療用コカイン利用目的としてのコカ栽培は、アジアでは、硫黄島、沖縄本島と当時の日本統治下の台湾だけであった。 当時の島民の証言によれば、「きちんと稼げていた」とのことであり、絶海の孤島ではあったが、島民の経済状態は悪くなかったようである。 島外との交通手段は、月1回の郵便船で母島へ渡り、そこから船で東京港へ向かうルートと、2か月に1度の日本郵船の定期船「芝園丸」で、東京港へ直行するルートがあった。 太平洋戦争の重要防衛地として認識され、日本軍が駐留するが、島民の疎開は行われず、アメリカ軍による1944年(昭和19年)6月の空襲で村落は壊滅、ようやく疎開が実施され、廃村となった(詳細は#沿革を参照)。
※この「第一次・二次世界大戦前」の解説は、「硫黄島 (東京都)」の解説の一部です。
「第一次・二次世界大戦前」を含む「硫黄島 (東京都)」の記事については、「硫黄島 (東京都)」の概要を参照ください。
- 第一次・二次世界大戦前のページへのリンク