竪坑墓の形状と出土遺物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 01:30 UTC 版)
「エル・オペーニョ文化」の記事における「竪坑墓の形状と出土遺物」の解説
エル・オペーニョ文化の竪坑墓は、地下の固い地盤を3メートルほど掘り下げてくりぬき、玄室に至る幅0.75メートル前後の羨道(せんどう)には階段が設けられている。階段を下りると1~2メートルほど平坦になり天井がドーム状になっている玄室に至る。これらの竪坑墓は、家族の霊廟の意味を持つ集合埋葬の行われた墓であったと思われる。 被葬者の頭蓋骨には頭蓋変形がほどこされたものや脳外科手術を思わせるような開頭術ないし頭蓋穿孔痕がみられるものがある。頭蓋骨穿孔手術を行った後も被葬者が一定期間生きていたようである。墓の中からは独特の衣装や姿勢から球戯者とそのチームメートを表現しているような土偶が「供物」としてささげられているのが発見された。土偶はすね当てをつけてボールをたたくためのバットないし棍棒と思われるものを持っていた。球戯場は、 ハリスコ州で発見された紀元前6世紀のものが今のところ最古の遺構であることから存在しなかったと思われる。エル・オペーニョ文化の他の墓で発見された「供物」は、粘土製、貝製、黒曜石、ひすいや他の緑色岩を材料とする遺物である。長さ43センチメートルのスレート製の球戯に用いるであろう棒や球戯者が手を守るためにつけた小さな石製の「くびき」(yoke)、亀の甲羅の形をして一種の「サスペンダー」を通す穴を持つ玄武岩製の小さな「胸当て」も発見された。 エル・オペーニョから発見された土器は単純な形の半球形の鉢すなわちボウル(bowl)とollasと呼ばれる小さな壺である。土器には刻線やキザキザ文様がつけられ粘土の隆帯のような装飾もつけられ、トラティルコの土器とよく似ている。そのことからエル・オペーニョとトラティルコはほぼ同時期であったろうと推定される。壺にはいわゆるネガティブ技法、すなわち、土器の表面にろうを塗ったり粘土紐を貼り付けた後、顔料をつけることによってあぶり出しのように文様を浮かび上がらせる技法によって文様がつけられた。これは後のタラスカ王国の土器の先駆をなす最古のものである。このような遺物の組み合わせが見られるのは、ミチョアカン州の海岸沿い、ハリスコ州のトマトラン(Tomatlan)川流域、同じくエツアトラン-テウチトラン(Etzatlan-Teuchitlan)地方である。
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