積極行動主義および政治的努力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 08:32 UTC 版)
「フィリス・シュラフリー」の記事における「積極行動主義および政治的努力」の解説
1946年、アメリカン・エンタープライズ研究所(英語版)の研究員となり、クラウド・I・ベイクウエルのアメリカ合衆国下院選挙キャンペーンに参加し彼は当選となった。 1952年、イリノイ州の大多数が民主党を占める下院第24選挙区で共和党連邦議会議員に立候補したが、民主党チャールズ・メルヴィン・プライスに敗れた。彼女のキャンペーンは低予算で主に地元の活字媒体に向けられ、ジョン・M・オリンやスペンサー・トゥルマン・オリンなどの地元企業家やテキサス州の石油王H・L・ハントなどが彼女のキャンペーンを支援した。この年初めて共和党全国大会に参加し、以降毎回参加し続けている。1952年の共和党全国大会のイリノイ代表の1人として1952年アメリカ合衆国大統領選挙の共和党の指名候補者であったロバート・タフトを支持。1960年の共和党全国大会でニューヨーク・タイムズに掲載されたリチャード・ニクソンの「against segregation and discrimination (人種差別および差別的待遇に反対する)」というスタンスに反対し、いわゆる「道徳的保守派」の者達を率いて抵抗した。 1964年アメリカ合衆国大統領選挙に立候補したバリー・ゴールドウォーターを支持する内容の自費出版の彼女の著書『A Choice, Not an Echo 』が何百万冊も売り上げたことで全米の注目を浴びた。この著書の中で彼女は北東部のロックフェラー・リパブリカンを非難し、汚職やグローバリズムを糾弾した。評論家は共和党を統制する「実力者達の秘密」の陰謀とした。 1967年、共和党女性連合の会長選でカリフォルニア州の穏健派候補グラディス・オドネルに少しの差で負けた。共和党女性連合の会長職を辞し、後のアメリカ合衆国財務官となるデラウェア州のドロシー・エルストンはシュラフリーとは反対の立場と取っていた。 ジョン・バーチ・ソサエティに参加したが、主な共産党員が国を脅かす物は内部よりも外部にあると考えたために脱退。1970年、イリノイ州のアメリカ合衆国下院議員選で民主党の現職議員ジョージ・E・シプリーに負けた。
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