稷下の学宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:27 UTC 版)
紀元前4世紀、斉の盛時をもたらした、威王や宣王は、各地から多くの学者を集めた。臨淄の13の城門のうち西門の一つである稷門の近く(稷下)の邸宅の稷下の学宮が与えられた。これらの学者には、多額の資金を支給して学問・思想の研究・著述にあたらせた。こうした学者たちは「稷下の学士」「稷下先生」などともよばれ、道教の始祖の荘子、陰陽家の鄒衍、贅壻であった淳于髠、道家である田駢、道家にも法家にも属する慎到、これも道家の接予、もう一人の著名な道家で環淵、性悪説を唱えた儒家の荀子、白馬非馬説で有名な兒説、墨家系統だが道家でもある宋銒、これも墨家系統であるが道家でもある尹文、兵法家で世に名高い孫臏などが著名である。稷下の学士は威王の代には72人、宣王の代には約1000人に達したという人気であった。 このような積極的な人材登用に刺激されたのか、性善説で有名な孟子も斉に仕官しに来た。しかし孟子は、俸給ももらわずただ論争するのみの学士と同等にされたくなく、稷下の学士と同じ対応を拒み、宣王の師としての対応を要求した。 稷下の学士たちは日々論争し、人々はこれを百家争鳴と呼んだ。さまざまな思想や学問が接触し、学者たちの間で討論が行わることで、論理が磨かれ、相互理解を深めることにつながった。こうして形成されたさまざまな学問は、稷下の学とも呼ばれる。このように討論をするので、稷下の学士は弁論術に磨きをかけ、論理を新たにしていった。そのような人物は、戦国時代では弁者や察者と呼ばれていた。斉は紀元前3世紀まで学問の中心地となっていた。
※この「稷下の学宮」の解説は、「斉国」の解説の一部です。
「稷下の学宮」を含む「斉国」の記事については、「斉国」の概要を参照ください。
- 稷下の学宮のページへのリンク