稷下の学士の創立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:01 UTC 版)
また、淳于髠は威王を覇者にするために、人材を積極的に登用することを勧めたといわれる。そこで、稷下の学士が登場することになった。彼らは、斉に高給で雇われた学者で、儒家や法家、道家や墨家などのいろいろな人々が集まった。彼らは大邸宅に住み、日々集まっていろいろなことを論じ合った。しかし、彼らは基本的に斉の要職に就くことはなく、政府はその討論から出てきた論理で役に立ちそうなものを政治に転用した。 宣王、文学遊説の士を喜ぶ。鄒衍、淳于髠、田駢、接予、慎到、環淵の徒の如きより七十六人、皆、列弟を賜い、上大夫と為す。治めずして議論す。是を以て斉の稷下の学士、復た盛んにして、且に数百人ならんとす。 と史記にある。なお、この記述は戦国策にもあるが、史記は主に戦国策を基にして作られたからだと思われる。戦国策の場合では、初めの宣の字がない。
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