神崎遺跡と弥生時代後期の東海地方から関東地方への移住について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 04:02 UTC 版)
「神崎遺跡」の記事における「神崎遺跡と弥生時代後期の東海地方から関東地方への移住について」の解説
神奈川県の相模川流域や花水川流域では、神崎遺跡以外の弥生時代後期の遺跡からも、静岡県や愛知県で出土した土器と同様の形態を持つ土器が数多く発掘されている。例えば神崎遺跡の約1キロ南西にある本郷遺跡からは主に天竜川以西の静岡県様式の土器が多く検出されており、藤沢市北西部から寒川町付近にかけては神崎遺跡と同様に豊川流域を中心とした愛知県東部様式の土器が検出されている遺跡が見られる。 一方、平塚市の王子ノ台遺跡など、花水川流域の平塚市や秦野市の弥生時代後期の遺跡からは、天竜川以東の菊川式土器と呼ばれる土器や、更に東の静岡市周辺の土器が多く確認されている。神崎遺跡など天竜川以西の静岡県西部から愛知県東部の形態を持つ土器が多く発掘されている相模川流域から、天竜川以東の静岡県の形態を持つ土器が多く発掘されている花水川流域まで10-20キロ程度しか離れていないが、それぞれ発掘される土器の傾向に明らかな違いが見られ、これは弥生時代後期に東海地方から神奈川県方面に移住してきた集団の構成自体が異なっていたものと考えられる。つまり神崎遺跡など相模川流域へは天竜川以西の静岡県西部ないし愛知県東部から、花水川流域には天竜川以東の静岡県方面から人が移住してきたものと見られている。なお、河川流域から東海地方から移住した人々が住んだ遺跡が見つかっていることから、東海地方からの移住手段は船であったとの仮説も唱えられている。 2世紀に東海地方から現在の神奈川県へ人の流入が見られた原因の一つとしては、当時の神奈川県は遺跡の状況などから人口が比較的少なく、逆に人口が多かった現在の静岡県や愛知県から人が流入した可能性があるとされている。また2世紀頃の弥生時代後期には、現在の神奈川県ばかりではなく、東京湾の西岸地域や現在の山梨県の甲府盆地などへも東海地方から人の移動が行われた可能性が指摘されている。2世紀後半には倭国大乱が起こったとされ、倭国大乱の中で邪馬台国の卑弥呼が登場したことを考えると、当時の日本は国家形成への揺籃期ともいえる状況下にあったと考えられ、そのような状況下で人の地域移住も盛んになっていた可能性が指摘されている。
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