祝祭の始まり
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「ベートーヴェン記念碑」の記事における「祝祭の始まり」の解説
ベートーヴェン祭は、1845年8月10日の日曜日に始まった。ベートーヴェンと親交のあったルイ・シュポーアは、この日の夜、『ミサ・ソレムニス』と交響曲第9番を指揮した。8月12日の火曜日、除幕式の朝には『ミサ曲 ハ長調』が大聖堂で演奏され、その後、正式な除幕式が行われた。 除幕式には数多くの著名人が出席した。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世と王妃、ヴィクトリア女王(8年前に即位して以来初のヨーロッパ大陸訪問の途上だった)と夫アルバート公、オーストリア大公フリードリヒ(英語版)、作曲家エクトル・ベルリオーズ、ジャコモ・マイアベーア、イグナーツ・モシェレスそしてフェリシアン・ダヴィッド、指揮者チャールズ・ハレ、バス歌手ヨーゼフ・シュタウディグル(ドイツ語版)とヨハン・バプティスト・ピシュチェク(ドイツ語版)、ソプラノ歌手ジェニー・リンド、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド、そしてローラ・モンテス。記念碑の資金調達のためにピアノのための大作を書いたシューマンとフェリックス・メンデルスゾーンは出席できなかった。 リヒャルト・ワーグナーは出席しなかったが、除幕式の1週間前にリストへ手紙を書き、ドレスデンにカール・マリア・フォン・ウェーバーの同じような像を建てる提案をした事から、この事を知っていたのは確かである。来場したすべての高官が署名した羊皮紙が、記念碑の中の鉛の棺に封印された。 これに続いて午後のコンサートが行われた。リストはピアノ協奏曲第5番を演奏、交響曲第5番を指揮し、シュポーアは『コリオラン』序曲、オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』のアリア、『フィデリオ』の四重唱とフィナーレを指揮した。当初はベルリオーズの『レクイエム』を演奏する事が提案されていたが、ベルリオーズはこの作品が演奏されるのであれば自分だけが指揮すると主張し、ボンの委員会はこれを好まなかったため、この計画は取り下げられた。 その夜は華々しい花火大会が行われた。 翌8月13日水曜日には、リストの『祝祭カンタータ』(2度、1回目は来賓の王侯なしで、もう1度は王侯到着後に演奏)、ベートーヴェンの『エグモント』序曲、ウェーバーのピアノ協奏曲、『フィデリオ』からレオノーレのアリア、メンデルスゾーンのアリア、『アデライーデの歌(英語版)』など、4時間に及ぶ演奏会が行われた。これに続き、ホテル・デル・スターンで550人のゲストを招いた祝宴が開かれた。ローラ・モンテスはテーブルの上で踊り、自分は祝賀会のゲストであると主張してリストを困らせ、自分の身分にふさわしい席を要求したため、事前に用意されていた席の配置を崩してしまった。この事はボン当局の中でスキャンダルとなり、リスト自身も反発し、1870年にボンでベートーヴェンの生誕100周年記念式典が開催された際には、リストは招待されなかったほどであった。
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