社会人~プロ~戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 07:04 UTC 版)
1931年(昭和6年)、満鉄に入社。大連満鉄倶楽部の主力打者として都市対抗野球で活躍。また1931年と1934年に大リーグ選抜チームが来日した際は、2度とも全日本チームのメンバーに選ばれ、中軸を打った。 1936年、阪急軍(のちの阪急ブレーブス)の結成にあたり入団。 1936年5月22日の大東京戦で、近藤久投手からプロ入り初本塁打を放ったが、これは阪急球団史上第1号本塁打であり、日本プロ野球史上初のオーバーフェンス本塁打でもある(プロ野球史上第3号本塁打)。同年7月12日の名古屋戦では、延長11回に松浦一義投手から日本プロ野球史上初のサヨナラ本塁打を記録。また同年12月1日の名古屋戦で森井茂投手から満塁本塁打を打ったが、これは阪急球団史上初の満塁本塁打であった。1936年秋季リーグ戦では、藤村富美男(大阪タイガース)、古谷倉之助(名古屋金鯱軍)とともに、本塁打王のタイトルを分け合っている。 戦前に使用されていたボールは、素材が劣悪であったため飛距離が出なかった。またラッキーゾーン設置以前の甲子園は、きわめて本塁打が出にくい球場であった。打者にとって不利なこれらの条件があったにもかかわらず、山下は戦前のプロ野球公式戦で最も多くオーバーフェンスの本塁打(4本)を放っている。 1938年春季から1940年までの山下は、現役選手と監督を兼任した。無口だったが、野球理論に詳しく、選手が威圧されるほどの貫禄があったそうである。練習はすべて軍隊的で行われたという。便宜上3シーズン制度が採用された1939年は、チームワークの大切さを植え付けて春季リーグでチームを優勝に導き、「幾多のスター選手があっても、チームの総親和がなければ勝てぬ」 と語っている。 1942年(昭和17年)、名古屋軍に迎えられたが、シーズン半ばで応召した。 戦後はセントラル・リーグの審判員を務めたのち、都内の美星野商事に勤務。 1987年、野球殿堂入り。1995年4月4日死去。享年88。
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