社会人となって以降
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「ジェームズ・エイジー」の記事における「社会人となって以降」の解説
大学を卒業した1932年、ニューヨーク州ブルックリン区に居を移すと『フォーチュン』誌の編集に携わるようになり、徐々に社会的急進主義に傾倒するようになった。1933年、大学時代に知り合ったヴィア・ソンダースと結婚。1934年、イエール大学出版部より最初の詩集『われに航海を許したまえ』が出版される。1937年、『パーティザン・レヴュー』誌に詩郡『抒情詩』が、『トランジション』誌に『父の思い出』が掲載。同年、ヴィアと別居の後に離婚。1938年、ニュージャージー州フレンチタウンに移った後、フロリダで過ごした休暇の中で書き進めた『ノックスヴィル・1915年夏』が『パーティザン・レヴュー』誌に掲載される。同年アルマ・メイルマンと再婚するも長くは続かず、1941年に再び離婚している。翌年に『フォーチュン』誌を辞し、『タイム』誌の書評担当者となる。1940年、アルマとの間に息子ジョエルが誕生する。1941年にホウトン・ミフリン社より『誉れ高き人々をたたえよう』が出版された。1943年、『ネイション』誌の映画批評欄を担当するようになると、1945年には最初の映画脚本『ブルー・ホテル』を書いた。1946年、三人目の妻となるミア・フィッチと結婚。同年長女ジュリア・テレサが誕生、1950年に次女アンドレア誕生。 小説や映画脚本の執筆活動に専念するため、『タイム』誌、『ネイション』誌を辞し、1949年より『朝の勤行』『家族のなかの死』を書き始める。『朝の勤行』は1951年にホウトン・ミフリン社より刊行されたがこの頃より心臓発作を繰り返すようになり、1955年5月16日、ニューヨーク市のタクシーの中で急死した。ほぼ完成していたものの厳密には未完であった『家族のなかの死』は、死後体裁を整えられた上で1957年に刊行され、ピューリッツァー賞小説賞を受賞、その後『家族のなかの死』を元に作られた演劇作品『ひたすら家路を』でもピューリッツァー賞演劇賞を受賞している。
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