破壊力学の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/22 04:21 UTC 版)
ベースとしてはルネサンス期より多用された応力設計(材料力学)の限界により始まった。19世紀あたりから鉄鋼が増産され、それにより車両機械などが発明されたことによる振動や、構造物は巨大化していったその中で20世紀に入り次々と応力設計の問題点が浮上してきた。構造物が脆性破壊により損傷することは、19世紀には広く知られていた。当時は、大きな構造物はリベット・継手で接合されていた為、構造物全体が損傷することは稀であった。しかし、20世紀中頃から溶接構造が広く使われるようになり、一箇所で発生したき裂が溶接部を通り構造物全体に波及する事故が多発するようになった。脆性破壊について最初に研究したのは、イギリスの科学者アラン・アーノルド・グリフィス(英語版)である。第二次世界大戦下で米国が建造していたリバティ船が多数脆性破壊で損傷したことにより、 グリフィスの脆性破壊の研究が脚光をあびた(グリフィス理論参照)。当初はガラスなどの脆性材料についての理論であったが、後に鋼材などにも適用が拡大されていった。応用面でも脆性破壊にとどまらず、疲労き裂の進展評価、腐食下での欠陥の寿命評価など破壊現象全般をその適用対象としていった。さらにこの分野の確立に決定的であったのはG.R.Irwinの応力拡大係数の導出であり、これによりエネルギー理論から応力理論への橋渡しが完成し、S.P.Timoshenkoが確立していた材料力学との接続が可能になったのでこの学問分野は破壊力学の名称が与えられた。
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