砲兵専門家
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クヴェトリンブルクに生まれる。1888年3月にアビトゥーアに合格し、大学で法学を学び始めるが、市議会議員だった父フリードリヒ・カールが事業に失敗し困窮したため、退学して陸軍に入営し、士官候補生として第2野砲連隊に配属された。1889年12月から見習士官としてハノーファーの士官学校に学ぶ。1890年に二級少尉、1895年1月に1級少尉に昇進。その間1893年1月から1898年12月まで、各地の砲兵連隊に勤務。1899年から1902年まで、砲兵試験委員会に勤務した。1902年から1907年まで第7砲兵連隊で中隊長を務める。 1907年10月にプロイセン参謀本部に転属となり、砲兵専門官となる。ロシア帝国と接する東部国境の要塞建築に関与。また日露戦争における塹壕戦や旅順攻囲戦を分析した。ロシア帝国がナレウ川沿いに建設中の要塞を偵察するため、ワルシャワの木材商人に扮してヴィリニュス、カウナス、フロドナ、ウォムジャの要塞を視察した。また1907年初夏には新聞記者に扮して偵察している。同じく1907年にはやはり新聞記者としてベルギーのリエージュ、ナミュール、アントウェルペンの要塞網を視察した。その一方、二十八糎砲が効果を上げた旅順攻囲戦の戦訓に鑑み、クルップ社に大口径砲の開発を命じ、42cm砲の開発に繋がった。
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