石垣・竹富島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 23:58 UTC 版)
司馬は、飛行機で進路を西南の石垣島に向かい、黒潮のふるさとへゆく思いがし、日本の島々に住む者にとってこの黒潮とモンスーンがその生活を決定していることの重要性を指摘するとともに、晩年の柳田國男が『海上の道』で述べた稲は、沖縄の島々を経て本土にきたという説を肯定的に紹介している。 翌朝、石垣の町を歩き、石積みの塀でめぐらされ、塀は赤い琉球瓦でふかれている美しい宮良殿内(みやらどんち)という士族屋敷を訪ねる。 竹富島では旅館の手伝いをしている東京出身の青年T君の屈託のない生き方に感銘を覚える。ひるがえって、沖縄問題を青春のアクセサリーのようにして論じてきた学生たちや、自分の若いころ、アジアの僻地で生涯を送ると言っていた連中がその決断に陶酔したことに対していやらしさを感じてしまう。 当時、人口が336人だった竹富島(2005年現在342人)は今日まで本土の観光資本から島の自然と文化を守ってきたが、その運動の中心人物である上勢頭亨(うえせどとおる)にも会う。また、妾になることを所望した石垣島から来た役人に肘鉄砲をくらわせた安里屋クヤマという美女を出した安里家を訪れる。 旅館の食事ごとに給仕をしてくれた二十の娘が、訪れようとして結局行けなかった波照間島出身だと知って驚き、東京に行きたいという娘に対して、司馬は、この太古の純朴さを持つ少女に、都会に行ってつらい目に遭うよりは、「竹富島のほうがずっといいじゃないか」、「東京は、こわいからね」と老婆心からアドバイスする。
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