石世擁立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)
9月、石宣が誅殺された事に伴い、石虎は群臣と共に誰を新たな皇太子に立てるか議論を行った。太尉張挙は進み出て「燕公斌(石斌)は武略を有し、彭城公遵(石遵)は文徳を有しております。陛下がどちらかを選ばれるとよいかと」と述べると、石虎は「卿の言は正に我が意である」と喜んだ。だが、張豺は石虎が老病である事に付け込み、石世を皇太子に擁立して劉氏を皇后に立てる事で、自らが輔政の任に就く事を目論んだ(劉氏はもともと前趙皇帝劉曜の娘であったが、前趙征伐の折に張豺が捕らえ、石虎に献上していた)。その為、張豺は石虎へ「燕公の母(斉夫人)は賤しい身分であり、燕公自身もかつて過ちを犯しました。彭城公の母(鄭桜桃)はかつて太子の事で廃されており(最初の皇太子である石邃もまた鄭桜桃の子)、今これを再び立てる事で不和が生じる事を臣は恐れてます。陛下におかれましては、どうかこの事を慎重に考慮下さいますよう」と述べた。さらに張豺は「陛下は二度に渡って皇太子を立てられましたが、彼らの母はいずれも卑しい娼婦に過ぎません。故に禍乱が相次いだのです。今回は母が貴く、自らは孝行な者を選び、これを立てるべきであると存じます」と勧めた。これに石虎は「それは卿の言う事ではない。太子を誰にするかは我が決める」と述べて張豺を窘めたが、結局この言葉に従って石世を太子に立てる事を決断した。 その後、石虎は再び群臣を集めて東堂において議論すると、群臣へ向けて「我は三斛の純灰で腸を自ら洗ったが、これによって穢れてしまったからか、専ら悪子ばかり生まれるようになってしまった。みな二十歳を過ぎれば、忽ち父を殺そうとする!今、世(石世)は十歳であるが、二十歳に近づく頃には、我は既に老いてこの世にいないであろう」と述べた。張挙・司空李農は石虎の意を察して議を定め、石世を太子に立てる上書を公卿に出させるよう命じた。だが、大司農曹莫だけはこれに署名しなかった。石虎の命により、張豺は使者として曹莫の下へ向かうと、その理由を問うた。すると、曹莫は頓首して「天下は重器であり、少(幼少の君主)を立てるべきではありません。故に敢えて署名しませんでした」と述べた。張豺は戻ってこの事を伝えると、石虎は「莫(曹莫)は忠臣であるな。しかし、朕の意が届いていないようだ。張挙と李農は我が意を知っているであろうから、彼を諭させるべきだな」と述べ、説得に当たらせた。 これにより石世は皇太子に立てられ、劉昭儀は皇后に立てられた。石虎は太常條枚・光禄勲杜嘏を召し出すと「面倒を掛けるが、卿らを太子の傅とする。まことに改轍する事(皇太子の行いを正す事)を望む。我はこれを両者に託すので、卿らはこの意味をよく理解するように」と述べ、條枚を太傅に、杜嘏を少傅に任じた。
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