発足の背景とAB線建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 08:05 UTC 版)
「日本鉄道建設公団」の記事における「発足の背景とAB線建設」の解説
東海道新幹線の建設が進められていた1960年代初頭、国鉄は主要幹線や首都圏の輸送増強策にともなう過大な経営・組織上の負担がネックとなって、地方の新線整備が進まない事態となった。また国鉄内部の諮問委員会は、国の政策による国鉄自身の負担が、今後の経営に深刻な影響を与える要因の一つになると警告していた。これに対して、政府は地方の新線建設を積極的に推進するため、鉄道公団を新設することで国鉄から新線建設事業を切り離した。 公団発足にあたっては当時自由民主党の有力議員で、鉄道による国土開発を積極的に主張していた田中角栄が大きく関与したとされる。特にAB線は政治的意向を反映したいわゆる「我田引鉄」の温床となり、国鉄の累積債務増大の主な原因となった。 1966年(昭和41年)に赤字転落後、悪化する経営の建て直しに迫られた国鉄は1968年(昭和43年)、慢性的な赤字に陥っている全国83路線(いわゆる「赤字83線」)を廃止する方針を決めたものの、一方で公団が建設する新しい赤字ローカル線を次々と引き受けさせられる事態となった。 1970年(昭和45年)に完成したA線の白糠線上茶路 - 釧路二股(のち北進)間のように、開業しても膨大な赤字が避けられないとして国鉄側が路線の引き受けを拒否したにも関わらず、政府が強制的に国鉄に移管させた例や、油須原線のように国鉄が引き受け拒否を貫いて、未開業のまま終わったケースもあった。
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