発見当初の動静とは? わかりやすく解説

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発見当初の動静

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:15 UTC 版)

カティンの森事件」の記事における「発見当初の動静」の解説

1943年4月9日ゲッベルスワルシャワルブリンクラクフ有力者ポーランド赤十字社調査勧告したポーランド赤十字社は反ソプロパガンダであるとして協力拒否したが、各市の代表は中央軍集団司令部向かい調査立ち会ったドイツ側赤十字社立ち会いの後に事件公表する予定であったが、1943年4月13日には世界各紙で「虐殺情報報道された。このためドイツベルリン放送カティンの森虐殺情報正式に発表された。 1943年4月15日ソ連ドイツ主張反論し1941年ソビエト侵攻してきたドイツ軍によってスモレンスク近郊作業従事していたポーランド人たちが捕らえられ殺害されたと主張した。しかし、捕虜スモレンスクにいたという説明ポーランド側行われたことがなく、亡命政府ソ連対す不信感強めたポーランド赤十字社にも問い合わせ殺到し調査に代表を派遣することになった。すでに回収され250体の遺体調査した赤十字社遺体ポーランド人捕虜であることを確認し1940年3月から4月にかけて殺害されたことを推定した1943年4月17日ポーランド赤十字社ドイツ赤十字社ジュネーヴ赤十字国際委員会中立的な調査団による調査依頼した。 これを受けてソ連ポーランド亡命政府猛烈に批判し断交ほのめかしたソ連反発見た赤十字国際委員会は、全関係国同意とれないとして調査団派遣断念した1943年4月24日ソ連ポーランド亡命政府対し「『カティン虐殺事件』はドイツ謀略であった」と声明するように要求した亡命政府側がこれを拒否すると、26日ソ連断交通知したポーランド赤十字社はカティンに調査団送り込みまた、ドイツポーランド人を含む連合軍捕虜、さらにスウェーデンスイススペインノルウェーオランダベルギーハンガリーチェコスロバキア当時ベーメン・メーレン保護領及びスロバキア共和国)など各国ジャーナリスト取材許可した。さらに枢軸国スイス中心とする国から医師法医学者中心とする国際調査委員会派遣された。1943年5月1日国際委員会ポーランド赤十字社による本格的調査開始された。

※この「発見当初の動静」の解説は、「カティンの森事件」の解説の一部です。
「発見当初の動静」を含む「カティンの森事件」の記事については、「カティンの森事件」の概要を参照ください。

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