発見後の論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/23 13:50 UTC 版)
「コア渓谷とシエガ・ベルデの先史時代の岩絵遺跡群」の記事における「発見後の論争」の解説
コア渓谷沿いの数キロメートルにわたって広がるこの先史的遺跡群が発見された後、論争が持ち上がった。もともと、この一帯にはダムをはじめとする水力発電施設の建設が予定されており、発見もその工事に絡んだものだったからである。 もしも、発電施設が建造されて水位が上がれば、線刻画のほとんどは水没してしまう。この事実は、一般市民や関連学会が遺跡の重要性を認識するよりも前に、ポルトガル国営エネルギー会社EDPと、国立文化財研究所(IPPAR)が認識していた。 EDP と IPPAR の合意のもとで遺跡の研究をしていた考古学者のネルソン・ラバダは、報道機関や、ユネスコのような先史的芸術や遺産に関する高等機関に向けた報告書を作成することに決めた。このことは、ポルトガル国内でのスキャンダルになり、サンデー・タイムズ、ニューヨーク・タイムズ、インターナショナル・ヘラルド・トリビューンなどの各紙で報じられたことで、国際世論も喚起した。 ユネスコのレポートでも、水力発電施設建設の是非については全会一致とはいかなかった。ユネスコの先史部門の責任者ジャン・クロットは、水位の上昇はむしろ蛮行から線刻を守ってくれるかもしれないとも主張していた。 この議論は考古学者や公論を納得させるには至らず、ポルトガル世論は建設に強い反対を示していた。1995年にアントニオ・グテヘス(António Guterres)首相のもとで、ポルトガルの国会と政府は建設中止を決断し、考古学的研究と一般の来訪に資する公園の設定を決めた。
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