発生から第一審有罪判決まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:25 UTC 版)
「菅生事件」の記事における「発生から第一審有罪判決まで」の解説
1952年6月2日午前0時半頃、菅生村の巡査駐在所でダイナマイト入りのビール瓶が爆発し、建物の一部が破壊された。警察は事前に100人近い警察官を張り込ませ、爆発直後に現場付近を通りかかった日本共産党員2人を、続けて他の仲間3人を逮捕する。新聞記者も待機しており、翌日の各紙では日共武装組織を一斉検挙したと報じられた。駐在所巡査の妻は記者会見で、「私は昨夜、駐在所が爆破されるのを知っていました。主人から今夜共産党員が駐在所に爆弾を投げ込みに来ると聞かされていました」と話し、警察が事件を事前に察知していたことをうかがわせている。 検察は逮捕された5人のほか、氏名不詳の人物1人が事件に関与しているとする起訴状を裁判所に提出し、公判が始まった。 警察は弁護側からなぜ当日、現場に多数の警察官が待機していたのか追及され、共産党員を被疑者とする「牛の密殺事件」の捜査中に偶然、事件に遭遇したと弁明した。 被告人らは、事件2日前の5月30日夜、「市木春秋」と名乗り数か月前から接触してきた自称共産党シンパの男に「西洋紙や壁新聞用のポスターカラーを寄付したい」と言われ、駐在所近くの中学校に当日午前0時に呼び出され、面会して別れた直後に爆発が起き、「市木」は警察の車に乗って行方をくらませたと主張し、無実を訴えた。しかし、1955年7月の大分地裁での一審判決では殺人未遂は否定されたものの首謀者を懲役10年にするなどして5人全員が有罪となった。
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