異端視された玉葉、風雅集と近代以降の研究と復権
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風雅和歌集の最終完成を前にして花園法皇が崩じ、風雅集の完成後まもなく勃発した観応の擾乱の中、光厳上皇が南朝に拉致されたことによって京極派は指導者を失い、壊滅していった。その後長い間、和歌の世界は伝統派である二条派の支配が続き、京極派は異端視された。江戸時代に至っても玉葉集、風雅集の和歌は異端であるとの見方が大勢であり、本居宣長も玉葉、風雅の風体は甚だ悪く、かりそめにも学ぶべきではないと酷評している。しかし江戸期には少数派ながら戸田茂睡、松平定信、北川真顔ら、玉葉集、風雅集を評価する声も出てくるようになっていた。 近代に入り、正岡子規、与謝野鉄幹らによる和歌の革新運動の中にあっても、当初、玉葉集、風雅集の存在は忘れ去られており、鎌倉時代から室町時代にかけては文学の暗黒時代のように見られていた。明治末期になって、まず藤岡作太郎が玉葉集、風雅集、そして京極派の和歌を評価した。大正時代になると福井久蔵、そして与謝野鉄幹も京極派の和歌を評価するようになった。とりわけ折口信夫、土岐善麿が玉葉和歌集、風雅和歌集を高く評価し、折口は「短歌の本質といふものは、実は玉葉、風雅に、完成して居たのである」と激賞した。これは京極派和歌の中でも特に自然詠が近代人の共感を呼ぶものであり、その結果、近代になって本格的に復権が可能となったものと見られている。 明治末期の藤岡作太郎による玉葉和歌集、風雅和歌集を中心とした京極派の再評価開始後、大正から昭和にかけて多くの研究者による様々な方面からの研究が深化していった。戦後になっても活発な研究は続いており、広く研究成果が発表され続けている。
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