異端視された玉葉、風雅集と近代以降の研究と復権とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 異端視された玉葉、風雅集と近代以降の研究と復権の意味・解説 

異端視された玉葉、風雅集と近代以降の研究と復権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 10:09 UTC 版)

玉葉和歌集」の記事における「異端視された玉葉、風雅集と近代以降の研究と復権」の解説

風雅和歌集最終完成前にして花園法皇が崩じ、風雅集完成後まもなく勃発した観応の擾乱の中、光厳上皇南朝拉致されたことによって京極派指導者失い壊滅していった。その後長い間和歌世界伝統派である二条派支配続き京極派異端視された。江戸時代至って玉葉集風雅集和歌異端であるとの見方大勢であり、本居宣長玉葉風雅風体甚だ悪くかりそめにも学ぶべきではないと酷評している。しかし江戸期には少数派ながら戸田茂睡松平定信北川真顔ら、玉葉集風雅集評価する声も出てくるようになっていた。 近代入り正岡子規与謝野鉄幹らによる和歌革新運動の中にあっても、当初玉葉集風雅集存在忘れ去られており、鎌倉時代から室町時代にかけては文学暗黒時代のように見られていた。明治末期になって、まず藤岡作太郎玉葉集風雅集、そして京極派和歌評価した大正時代になると福井久蔵、そして与謝野鉄幹京極派和歌評価するようになったとりわけ折口信夫土岐善麿玉葉和歌集風雅和歌集高く評価し折口は「短歌本質といふものは、実は玉葉風雅に完成して居たのである」と激賞した。これは京極派和歌中でも特に自然詠近代人共感を呼ぶものであり、その結果近代になって本格的に復権が可能となったものと見られている。 明治末期藤岡作太郎による玉葉和歌集風雅和歌集中心とした京極派再評価開始後、大正から昭和にかけて多く研究者による様々な方面からの研究深化していった戦後になって活発な研究続いており、広く研究成果発表され続けている。

※この「異端視された玉葉、風雅集と近代以降の研究と復権」の解説は、「玉葉和歌集」の解説の一部です。
「異端視された玉葉、風雅集と近代以降の研究と復権」を含む「玉葉和歌集」の記事については、「玉葉和歌集」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「異端視された玉葉、風雅集と近代以降の研究と復権」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「異端視された玉葉、風雅集と近代以降の研究と復権」の関連用語

異端視された玉葉、風雅集と近代以降の研究と復権のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



異端視された玉葉、風雅集と近代以降の研究と復権のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの玉葉和歌集 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS