町役人・政治家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/21 06:22 UTC 版)
明治元年(1868年)10月、24歳で家督を継ぎ、同月、高岡学館督学となる。この年は大飢饉が起こったが、貧民救済に奔走し、一人の餓死者も出すことはなかった。廃藩置県後の高岡の所属は目まぐるしく変わったが、明治5年(1872年)5月には郷長兼戸長に、翌年には第17大区区長(現在の高岡市長に相当)となる。 明治7年(1874年)片原町に開校した南之小学校に育英小学校と名づけ、教育第一主義を堅持し校舎新築に取り組む。明治9年(1876年)3月、高岡学館跡に北陸随一と言われた高岡育英小学校を落成、教育界でも多大な貢献をした。 嘉十郎の功績で見逃せないのは、高岡古城公園の創設である。金沢藩は明治3年(1870年)、財政的な事情から突如、高岡城跡を民間に払い下げて開墾する旨の通達を出した。それを受けて七尾県は払い下げを断行、落札者も決定していたが、嘉十郎や後に市長となった鳥山敬二郎らの請願運動が実を結び払い下げは取り消され、開墾されることなく2年後の明治8年(1875年)7月4日、高岡城跡は正式に公園として指定された。1955年(昭和30年)、開園80周年記念にあたり、古城公園中の島に「服部嘉十郎先生頌徳碑(しょうとくひ)」が建立されている。
※この「町役人・政治家として」の解説は、「服部嘉十郎」の解説の一部です。
「町役人・政治家として」を含む「服部嘉十郎」の記事については、「服部嘉十郎」の概要を参照ください。
- 町役人政治家としてのページへのリンク