申相ジョン
(申相奵 から転送)
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本来の表記は「沈相奵」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
申相ジョン | |
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シム・サンジョン(近影)
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各種表記 | |
ハングル: | 심상정 |
漢字: | 沈相奵 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
しん・そうてい |
片仮名: (現地語読み仮名) |
シム・サンジョン |
沈相奵(シム・サンジョン、1959年2月20日-)は、大韓民国の労働運動家、女性政治家である。2008年に結成された進歩主義政党である進歩新党では、魯会燦などと共同代表を務めた。
目次 |
生涯
京畿道坡州郡生まれ。1971年にテジョ小学校を卒業し、1974年、チュンアム中学校、1977年には明知女子高等学校を卒業した。
労働運動
ソウル大学師範学部歴史教育学科に進学して卒業した。その後、1980年に九老公団に偽装就業して労働組合を組織する活動など、労働運動を行った。そして、大宇アパレルでミシン作業に従事しながら、労働組合を結成したが、1984年に労働組合結成および労働争議の首謀者として指名手配された。しかし、逃亡中の1985年6月、全斗煥軍事独裁政権期の最初の政治的ストライキである九老同盟ストライキに主導的役割を果たした。その後、逮捕され、1993年に懲役1年執行猶予2年の判決を受けた。
民主労働運動
九老同盟ストライキ以後は、組織的な民主労働運動の先頭に立った。1987年8月、大衆政治組織としてソウル労働運動連合(ソ労連)結成に参加した。以後、1988年全国労働運動団体協議会(全労運協)結成に参加し、1990年全国労働組合協議会(全労協)で争議局長と組織局長を歴任した。1995年11月、民主労働運動の総結集体である民主労働組合総連盟(民主労総)が結成された後、1996年から2001年まで、民主金属連盟および金属産業連盟の事務所長を歴任した。
2001年、産業別労働組合である金属労働組合が結成されると、金属労働組合事務所長などを歴任し、2003年、最初の産業別中央交渉を通して労働条件改善および賃金削減なき週5日勤務制度を合意させた。
政治活動
労働運動家としての人生を送った沈相奵は、2004年4月の第17代国会議員総選挙に民主労働党(以下、民労党)の比例代表候補として出馬して当選、25年にわたる労働運動の末に進歩主義政党の国会議員となった。
2004年、国会財政・経済委員会と運営委員会に所属した。2007年には国会財政・経済委員会の他に、予算・決算特別委員会、韓米FTA特別委員会で活動した。活動期間中、沈相奵は他の民労党所属議員と、既存の巨大政党の国会議員を牽制する役割を果たしたことは、評価されている。
2007年大統領選挙で、沈相奵は権永吉、魯会燦と共に党内予備選挙を闘った。この予備選挙では、沈相奵は2位となり、魯会燦との決選投票に持ち込んだが、首位に立つことはなく民主労働党の大統領候補とはならなかった。
以後、2007年大統領選挙が終わると、2002年大統領選挙、2004年国会議員選挙より低調な得票率を記録したことと関連し、党指導部を退き、翌2008年1月12日から民労党非常対策委員会(非常委)委員長として活動した。
進歩政党の革新と変化のための努力
沈相奵非常委委員長は、まず最初に、党の古い要素を果敢に革新すること、次に強力な進歩野党を建設すること、その次に民労党の裾野の拡大を3大目標として約束した。民主労働党の古い要素の革新とは「運動圏政党」、「民主労総政党」、「親北党」などと揶揄された国民の叱責と警告を謙虚に受け止め、新たな出発を期さなければならないと主張した。
即ち、民主労働党は運動圏政党を乗り越え、大衆的進歩政党に脱皮しなければならないと主張した。沈委員長は、過去、運動圏の用語と惰性を、進歩的だと考える錯覚がある限り、民労党は国民にとって古くて受け入れ難い党だと言う他なく、国民と意思疎通をしなければ信頼もされず、検証可能な対案を提示しなければならないと主張した。国民との疎通を妨げる制度だけではなく、習慣からも訣別し、単なる批判勢力に過ぎない現状を乗り越え、大衆的進歩政党に姿を変えなければならないとした。
特に、民労党は「大企業正社員党」だとする国民の批判を受け止め、民主労総に対する過度の依存構造を改革し、非正社員の立場をも代弁し得る独自の運動戦略を立てると約束した。ましてや親北の偏った政党というイメージを断ち切るため、民主労働党に対する誤解と不信を生み出した一心会事件に対して、公党に相応しい責任ある処分を下し、韓国の進歩政党に相応しい平和統一に対する独自の視点と、民族主義問題に関する幅広い討論と論戦を通して、再出発すべきだと公約した。
次に、強力な進歩野党の建設のためには、李明博政府の
に対して、
を押し立てることを提案した。
これに対して、非常委の傘下に、李明博政府対応大運動本部(仮称)を設置し、汎社会市民運動系を結集し、李明博政府に対する徹底した対応体制を取らなければならないとした。沈委員長は、賛成か反対かを論じるだけの野党ではなく、政権が掲げる政策よりも、よりよい政策を掲げて国民に評価される強力な対案野党に姿を変えるべきだと公約した。
その次に、民労党の裾野の拡大のために、同党が固執していた党派談合や、覇権構造を止揚して、民労党の扉を進歩陣営全体に向けて果敢に開放すると公約した。特に、比例代表制は、民主労働党の価値と可能性を国民に示す武器として、進歩政党最初の影の内閣を作ると宣言した。
沈委員長は、これを通して生活の中に進歩を実現する進歩的大衆政党に自己成長するため、今までの7年間の民労党の体制を乗り越え、変化と革新を実現し、これを通して国民の生命と生活を変化させ得る生活の中で進歩を実現する大衆的進歩政党に進むと宣言するのではなく、大衆の生命と生活を変化させる責任があり、能力ある進歩を指向すべきだと表明した。
しかし、沈非常委委員長の革新と変化のための努力は、党内の2つの覇権勢力(NL:自主派 VS PD:平等派)の対立の中で、暗礁に乗り上げた。いわゆるPD陣営の一部は、民労党の失敗の原因を、いわゆる征服主義と規定して脱党運動を主導した。反対に、党内多数派のNL派は、一進会事件に関与した者の除名処分は、国家保安法に屈服するものだとして、積極的に非常委の努力を批判した。沈非常委委員長は、民労党の腐敗から目をそむけており、高い視点を持った進歩政治の不在から解放されなければならないと力説した。2つの覇権グループの対立を治めるには、力不足だった。
以後、2008年2月3日の党大会で、非常対策委員会の革新案を否決され、沈相奵は委員長に与えられていた責任と権限を事実上否定された。民主労働党は、分裂の危機に陥った。
その後、魯会燦と共に、進歩新党の結成に主導的役割を果たし、同党の共同代表に就任した。結成直後に行われた2008年国会議員総選挙では、高陽市徳陽区甲から出馬した。選挙では、フィンランド式の教育の推進と、能力ある進歩政治を公約の中心に掲げた。しかし開票の結果、得票率は37%に留まり、ハンナラ党のソンボムギュ候補に6%の差をつけられ、再選に失敗した。
国会議員に再選されなかった沈相奵代表は、進歩新党を改組し、能力があり信用できる進歩を合言葉に、新しい政治の道を開拓している。2009年3月の第2次党大会では常任代表職を退いて、新たに京畿地域全国委員に選出された[1]。
著書
「堂々とした美しさ」(レディアン、2008年)
脚注
- ^ 進歩新党ノ・フェチャン単独代表で新出発 ノ・フェチャン「宣言でなく庶民の本当の友に」 2009年3月29日付レイバーネット
外部リンク
- 申相ジョンのページへのリンク