田中頼庸とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 田中頼庸の意味・解説 

田中頼庸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 16:09 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

田中 頼庸(たなか よりつね、1836年天保7年)5月 - 1897年明治30年)4月10日)は、幕末から明治時代の神道家国学者薩摩藩士である。通称は藤八。号は雲岫又は梅屋。

経歴・人物

大山綱良を叔父に持つ薩摩藩の一家に生まれる。幼年の頃に薩摩藩士となり、鹿児島城重野安繹、今藤新左衛門らと共に文学の秀才と名付けられた。後に高崎正風の従兄弟である高崎五六と親交を持った事で、正風は頼庸の父である綱良が属した若手の薩摩藩の組である「誠忠組」に入ったが、頼庸は辞退する。

その後、島津久光が執行した文久の改革により活動の場を京都に移し、儒学医学等を学んだ。後に国学を専攻し、1867年慶応3年)に薩摩に戻った。維新後の1871年(明治4年)に神祇省に入省し、教部大録や伊勢神宮禰宜となった。

さらにその後、大教正神道事務局の副管長も務める。

1882年(明治15年)には管長に昇格した事により独立し、禰宜を辞職する。同時期に常世長胤や出雲派の千家尊福を批判する等、一躍有名となった。

主な著作物

主著

  • 『校訂日本紀』
  • 『校訂古事記』
  • 『神徳論』
  • 『(神宮)祭神略記』

その他の著書

  • 『三則演義』
  • 『梅の屋文集』
  • 『校訂古語拾遺』
  • 『(神宮)祭神提要』
  • 『語書』

出典

外部リンク



このページでは「ウィキペディア」から田中頼庸を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から田中頼庸を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から田中頼庸 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「田中頼庸」の関連用語

田中頼庸のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



田中頼庸のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの田中頼庸 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS