田中克己 (詩人)とは? わかりやすく解説

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田中克己 (詩人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/22 14:28 UTC 版)

田中 克己
壮年期
人物情報
生誕 (1911-08-31) 1911年8月31日
日本大阪府
死没 1992年1月15日(1992-01-15)(80歳没)
出身校 東京帝国大学
学問
研究分野 中国文学
研究機関 天理図書館滋賀県立短期大学帝塚山学院短期大学東洋大学成城大学
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田中 克己(たなか かつみ、1911年明治44年)8月31日 - 1992年平成4年)1月15日)は、日本の詩人東洋史学者

生涯

出生から修学期

1911年、大阪府で生まれた。東京帝国大学東洋史学科で学び、1934年に卒業。在学中の1932年、保田與重郎、肥下恆夫、中島栄次郎、松下武雄、小高根太郎、杉浦正一郎、服部正己ら大阪高等学校同窓生と文芸同人誌『コギト』を創刊。1936年堀辰雄の推挙により、詩誌『四季』(第2次)同人となり、津村信夫神保光太郎と共に編集にも携わった。1941年詩文集『楊貴妃クレオパトラ』で第5回北村透谷記念文学賞受賞。

戦中

1942年1月、文士徴用軍属の第2陣として北川冬彦中島健蔵神保光太郎らと共に南方戦線後方(シンガポールスマトラ)へ派遣された。年末に帰国。1945年3月に応召入隊。二等兵として河北省に出征。敗戦とともに現地除隊となった。北京天津へ移動し、1946年2月に帰還を果たした。

太平洋戦争後

敗戦により皇国史観を捨て、のち1962年キリスト教(プロテスタント派)に改宗した。

戦後は天理図書館滋賀県立短期大学帝塚山学院短期大学に勤務。帝塚山学院短期大学では杉山平一小野十三郎が同僚であった。その後東洋大学に転じ、1959年より成城大学教授。この間、天野忠、井上多喜三郎、小高根二郎ら関西の詩人達と詩誌『コルボウ』『詩人学校』『骨』『果樹園』を創刊して交わった。晩年、第5次『四季』を再刊主宰。1982年に成城大学を定年退任し、名誉教授となった。1992年に死去。

受賞・栄典

研究内容・業績

研究者としては、唐宋漢詩に造詣が深く、李白をはじめとする多くの訳書・評伝を残した。博識な語学力を生かして、余技のドイツ語においてもハイネ訳詩集を出しており、版を重ねた。

詩人または創作活動について

癇癪が持ち前であり、詩人としての顔をもつ。昭和10年代の詩壇において主に『コギト』『四季』『文藝文化』など抒情詩精神を標榜する同人誌を中心に活躍した。初期にモダニズムの影響を蒙るも、所謂『日本浪曼派』の文化圏にあって(自身は同人に未加入)、同じく硬質の抒情を能くした伊東静雄のライバルと目された。

著作

詩歌集
著書
  • 楊貴妃とクレオパトラ』ぐろりあ・そさえて(新ぐろりあ叢書 22) 1941
    • 再版 元々社(民族教養新書 28) 1955
  • 李太白』日本評論社(東洋思想叢書 15) 1944
    • 再版 元々社(民族教養新書 9) 1954
  • 『李白』筑摩書房(鑑賞世界名詩選) 1955
  • 『中国后妃伝』筑摩書房(グリーンベルト・シリーズ) 1964
  • 杜甫伝』講談社 1976
  • 『中国の自然と民俗』研文出版 1980
  • 蘇東坡』研文出版 1983
共編著
訳書

参考

  • 『日本近代文学大辞典』講談社、1984

外部リンク

脚注

  1. ^ 担当は「李白の部」



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