田中 久一とは? わかりやすく解説

田中久一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/20 03:09 UTC 版)

田中久一
生誕 1889年3月16日
日本 兵庫県
死没 (1947-03-27) 1947年3月27日(58歳没)
中華民国 広東省広州市
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1910年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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田中 久一(たなか ひさかず、1889年明治22年)3月16日 - 1947年昭和22年)3月27日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・小金井。

経歴

死刑執行前の田中久一
死刑執行後の田中久一の遺体

兵庫県出身。田中八作の養子となる。1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第37連隊付となる。陸軍戸山学校で学び、戸山学校教官、教育総監部付などを経て、1918年11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。

参謀本部付勤務、参謀本部員、アメリカ出張、参謀本部員、歩兵第1連隊付、陸大専攻学生、陸大教官、陸軍省軍務局課員、陸軍歩兵学校教官、近衛歩兵第1連隊長、陸大教官などを歴任し、1937年12月、陸軍少将に進級。

台湾軍参謀長第21軍参謀長、戸山学校長などを経て、1940年8月、陸軍中将となった。同年9月、第21師団長に親補され、中国大陸を転戦。1943年3月1日第23軍司令官、1945年2月1日香港占領地総督を兼任して終戦を迎えた[1]

1946年3月にBC級戦犯指名を受け、同年10月9日に上海の米軍事法廷により死刑判決が出されたが[2]、翌年3月に中国の軍事法廷により再び戦犯として起訴され、広州銃殺刑に処せられた。

辞世の句

永年の 終りの歩み さわやかに
恵みの途を 辿りゆく吾

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

家族

  • 長男 田中義信(陸軍大尉・戦死)

脚注

  1. ^ [1]
  2. ^ 広東裁判2号。裁判資料は国立公文書館に納められている。
  3. ^ 『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。※小金井久一
  4. ^ 『官報』第460号「叙任及辞令」1914年02月12日。※小金井久一
  5. ^ 『官報』第1988号「叙任及辞令」1919年03月21日。
  6. ^ 『官報』第3534号「叙任及辞令」1924年6月5日。
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  8. ^ 阿部勝雄外三十二名」 アジア歴史資料センター Ref.A10113477700 

関連項目

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
先代
磯谷廉介
香港占領地総督
1944年 - 1945年
次代
フランクリン・チャールズ・ジムソン(殖民地臨時首長)




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