産婆修行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 14:45 UTC 版)
当時の東京で、女性が1人で自活していくことは並大抵のことではなかった。瑞子は手に職を付けることを考え、産婆(助産師)への道を志した。良妻賢母の思想が根強く、女性が仕事に就くことが困難であった当時、産婆は例外的に女性のみが勤めることのできる稀有な職業であり、その上、収入も安定し、政府や地域社会に認められた職業でもあった。 産婆会の会長である津久井磯が、前橋で数人の助手を雇って開業していたことから、1879年(明治12年)、瑞子は前橋に移り、知人の紹介により、磯の助手として住み込みで勤めた。瑞子は新参者にもかかわらず、早々に頭角を現し、磯の信頼を得るに至った。磯の没後に建立された後述の顕彰碑にも、瑞子のことが「従遊もっとも久しく、学術最も勝る」と記載されている。 折しも1876年(明治9年)に、東京府で産婆教授所が設置されて以来、産婆教育は従来の徒弟制度に代り、正式な産婆教育が開始された時期であった。磯は瑞子に、正式に産婆学を学ぶことを勧めた。1881年(明治14年)、瑞子は産婆開業資格を取るべく、上京して産婆養成所である紅杏塾(後の東京産婆学校)で学んだ。学費は磯が援助した。瑞子は磯の助手として産婆の実践を学ぶことに加えて、この紅杏塾で、その実践を裏付ける理論を学んだ。特に徒弟制度では学ぶことのできない異常妊娠分娩産褥論、初生児処置などを学ぶことで、学問としての知識と技術、医師と産婆の職域の違いを明確に理解した。1882年(明治15年)に紅杏塾を卒業。同1882年、内務省産婆免許を取得した。 産婆は当時、社会進出を目指す女性にとっての花型職業であったが、東京府の産婆は約3千人のところ、正式な免許取得者は、仮免許を含めてもわずか658人であり、瑞子のような産婆が希少な存在として尊重されていたことが示されている。後年に発行された愛知県西尾市の『西尾市史』では。「本邦に於て、内務省の産婆免許は、實に瑞子を以て嚆矢とす」と記載があり、瑞子は内務省の免許を持つ日本でも数少ない先駆的な産婆であったと見られている。
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