生い立ちから、大山道場入門まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 09:46 UTC 版)
「芦原英幸」の記事における「生い立ちから、大山道場入門まで」の解説
広島県佐伯郡能美町(現・江田島市)出身。少年時代は、本人によればごく平凡な普通の子供だったが、他人に頭を下げる事が異常に嫌いでプライドが高く、強情な子供だったためつまらない事でケンカになる事が多く、「ワル」とレッテルを貼られ、何か問題が起こると必ず芦原が悪者にされたという。もっとも、実際の自分がやった悪さと濡れ衣の比率は7対3ほどだったため、悪ガキだったのは事実と本人も認めている。空手との出会いは五年生の頃、隣家の息子が関西の大学の空手部に入っており、帰省していた時に自宅の庭で稽古をしているのを見たのが初めてだが、当時はいたずらやケンカに忙しく、夢中になる事はなかった。中学では剣道を習った。中学校を卒業後、就職のため単身上京。後年、芦原の最後の直弟子を自称する原田寛によれば、実は親にはほぼ捨てられたような形で実際に芦原を育ててくれたのは祖父だったと話していたという。1961年、自動車修理工場で働く傍ら、池袋にあった、大山倍達が主宰する、極真会館の前身・大山道場に入門し、空手道を始める。当時の大山道場は、老朽化したバレエ・スタジオ跡を借りたボロボロの道場だが、顔面、金的全てOKの、ケンカそのもの、芦原の期待を上回る実戦的な内容であった。組手では、初心者の芦原相手でも説明などは一切なく、「ケンカくらいやったことあるだろ。ケンカのつもりでこい!」とくる。しかし芦原はそんな大山道場が気に入り、「とりあえず帯に色が付くまでは通ってみよう」と思って通い続け、結局大山道場から極真会館への刷新を経て19年にわたり在籍する事になる。
※この「生い立ちから、大山道場入門まで」の解説は、「芦原英幸」の解説の一部です。
「生い立ちから、大山道場入門まで」を含む「芦原英幸」の記事については、「芦原英幸」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から生い立ちから、大山道場入門までを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 生い立ちから、大山道場入門までのページへのリンク