環濠について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 04:02 UTC 版)
神崎遺跡では南北103メートル、東西65メートル、総延長270メートルと推定される楕円形をした環濠が検出された。環濠内の面積は約5000平方メートルであり、環濠内からは住居址が検出されている。なお神崎遺跡の場合、1989年(平成元年)の調査時に環濠外へ延ばしたトレンチから新たな環濠が検出されなかったことから、環濠は一重であったと考えられている。 環濠の西側、南側、北側は台地上に掘られているが、北東隅から東側にかけて台地から目久尻川沿いの沖積地へ下る斜面中腹に掘られるようになり、東側から南東側にかけて台地上に戻り、南東部から南東隅にかけては台地の辺縁部に掘られている。 環濠は平均斜度60度の急傾斜のV字状をしているが、一部には底がやや丸みを帯びた場所もある。また北東隅から東側にかけては斜面中腹に濠が掘られたため、濠の内側となる西側と外側になる東側とで著しい高低差が見られるなど、場所によって多少の違いは見られるが、濠の深さ、幅とも約1.8メートルである。 環濠の北東隅からは、東側の目久尻川沖積地へ下る環濠の分岐が確認された。これは濠の排水ないし集落から目久尻川方面へ向かう通路として利用されたとの仮説が提唱されている。また環濠の南西部からは環濠底面に長径192センチ、短径70センチ、深さ146センチの隅が丸い長方形の土坑が検出された。この土坑の役割ははっきりとしないが、環濠外から集落への入り口など環濠に付随する施設であると考えられる。そして弥生時代の環濠集落で良く見られる土塁や柵はこれまでのところ検出されていない。 これまで検出されている神崎遺跡の住居址は、全て環濠から7-10メートル離れて建てられており、これは神崎遺跡全体が計画性を持って建設されたことを示唆している。また環濠を覆う堆積物は全て自然堆積によるものと考えられ、人工的に埋め戻された形跡は見られない。そして環濠内から検出された土器は環濠を埋めた土層の下部から集中的に検出されており、土器捨て場や住居址から検出された土器と接合するものもある。これらのことから集落と環濠の廃絶が同時であったと考えられ、後述の検出された土器の形式が、基本的に同時代の同一様式内に止まっていることなどとともに、神崎遺跡は比較的短期間で廃絶した集落であったことを示すものと考えられる。 環濠は当時の社会的緊張を反映して集落の周囲に掘られるようになったと考えられており、神崎遺跡も台地から目久尻川沖積地への急傾斜地となる東北隅から東側にかけても環濠がしっかりと掘られていることから、緊張した環境下に置かれていたとも考えられるが、検出された出土品の内容や土塁・柵が確認されていないことなどから、必ずしも神崎遺跡が近隣集落などとの強い緊張関係の中にあったとは考えられていない。 なお、環濠集落の外側には方形周溝墓がある場合が多いが、神崎遺跡では1993年(平成5年)と1994年(平成6年)には環濠の南側、2009年度(平成21年度)には環濠の北側外部でトレンチ調査が実施されたが、これまでのところ方形周溝墓は見つかっていない。
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