王政崩壊後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 01:16 UTC 版)
「プロイセン統治者の一覧」の記事における「王政崩壊後」の解説
詳細は「プロイセンの首相」および「de:Liste der preußischen Ministerpräsidenten」を参照 ドイツ帝国の崩壊後、プロイセンはヴァイマル共和国内の州邦「プロイセン州」となった。プロイセン州はドイツ国全土の3分の2を占め、大きな自治権を持っていた。 プロイセン州の首相(共和政期) パウル・ヒルシュ(de:Paul Hirsch)(SPD) 1918年 - 1920年 オットー・ブラウン(SPD) 1920年 - 1921年 アダム・シュテーゲルヴァルト(de:Adam Stegerwald)(ドイツ中央党) 1921年 オットー・ブラウン(SPD) 1921年 - 1925年 ヴィルヘルム・マルクス(ドイツ中央党) 1925年 オットー・ブラウン(SPD) 1925年 - 1932年 1932年にドイツ首相フランツ・フォン・パーペンはプロイセン・クーデター(ドイツ語版)を起こし、プロイセン州政府を罷免した。パーペンは国家弁務官に就任し、州を中央政府の統治下に置いた。 国家弁務官 フランツ・フォン・パーペン(無所属) 1932年 (ドイツ首相) クルト・フォン・シュライヒャー(無所属) 1932年 - 1933年 (ドイツ首相) フランツ・フォン・パーペン(無所属) 1933年 (ドイツ副首相) 1933年1月30日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が権力を掌握すると、国家弁務官の職は一時廃され、パーペンが首相となった。しかし、2月6日には再び国家弁務官職が設置され、州内相となったヘルマン・ゲーリングによって実質的に支配されるようになった。4月11日にはゲーリングが州首相となったが、次第に州の自治権は消滅したため、単なる称号の一つに過ぎなくなった。 州首相 ヘルマン・ゲーリング(国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)) 1933年4月11日 - 1945年4月23日 ライヒ代官(Reichsstatthalter) ヘルマン・ゲーリング(NSDAP) 1935年 - 1945年4月23日 1945年にナチス・ドイツが敗北するとプロイセン州は、他の地域とともに分割・再編され、プロイセンは公的には1947年に消滅した。 「ドイツの地方行政区分」を参照 本来のプロイセンにあたる東プロイセンはポーランドとソビエト連邦の間で分割された。
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