玉置商会から東洋製糖の時代へ
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「北大東島のリン鉱山」の記事における「玉置商会から東洋製糖の時代へ」の解説
北大東島でのリン鉱山の開発に失敗した玉置商会は、南大東島と同じくサトウキビ栽培と製糖事業を開始することにした。1911年、島内中央部の池之沢を拠点としてサトウキビの栽培を開始し、翌1912年には製糖業に乗り出した。玉置商会はサトウキビ栽培、製糖事業を会社直営とし、会社直営農場としてサトウキビ栽培は島内各地に広げられていった。 ところで玉置商会の事業を主導していた玉置半右衛門は1910年11月1日に没していた。1911年には長男の玉置鍋太郎が2代目玉置半右衛門を襲名して事業を続けたが、事業が振るわなくなったため、玉置半右衛門の三男の玉置伝は、南北大東島産の砂糖販売を一括で請け負っていた鈴木商店の斡旋を受けて両島の事業の譲渡を行うことになった。 事業の譲渡先は東洋製糖株式会社であった。東洋製糖は台湾で広く砂糖の取引を行い、日本の砂糖流通に大きな影響力を持っていた鈴木商店によって1909年に設立された会社で、台湾で製糖業を展開していた。1916年、玉置商会は東洋製糖に合併された。 南北大東島における事業権はまず東洋製糖によって新たに設立された大東島拓殖会社が握った。翌1917年、国有地であった南北大東島が払い下げられ、1918年には大東島拓殖会社を東洋製糖が合併した。 なお玉置商会から東洋製糖への事業譲渡と南北大東島の払い下げに対し、島民たちは強く反発して「共進会」という組合を結成して反対運動を行った。沖縄県当局や沖縄のマスコミからも事業譲渡と払い下げの動きに対する批判が出されたが、結局、共進会と東洋製糖側との交渉の結果、両者は覚書を取り交わし事態は収拾された。
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