玉置商会から東洋製糖の時代へとは? わかりやすく解説

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玉置商会から東洋製糖の時代へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 08:53 UTC 版)

北大東島のリン鉱山」の記事における「玉置商会から東洋製糖の時代へ」の解説

北大東島でのリン鉱山の開発失敗した玉置商会は、南大東島同じくサトウキビ栽培製糖事業開始することにした。1911年島内中央部池之沢拠点としてサトウキビ栽培開始し、翌1912年には製糖業乗り出した玉置商会サトウキビ栽培製糖事業会社直営とし、会社直営農場としてサトウキビ栽培島内各地広げられていった。 ところで玉置商会事業主導していた玉置半右衛門1910年11月1日没していた。1911年には長男玉置太郎2代目玉置半右衛門襲名し事業続けたが、事業が振るわなくなったため、玉置半右衛門三男玉置伝は、南北大東島産の砂糖販売一括請け負っていた鈴木商店斡旋受けて両島事業譲渡を行うことになった事業譲渡先東洋製糖株式会社であった東洋製糖台湾広く砂糖取引行い日本砂糖流通大きな影響力持っていた鈴木商店によって1909年設立された会社で、台湾製糖業展開していた。1916年玉置商会東洋製糖合併された。 南北大東島における事業はまず東洋製糖によって新たに設立され大東島拓殖会社握った。翌1917年国有地であった南北大東島払い下げられ1918年には大東島拓殖会社東洋製糖合併した。 なお玉商会から東洋製糖への事業譲渡南北大東島払い下げ対し島民たちは強く反発して共進会」という組合結成して反対運動行った沖縄県当局沖縄マスコミからも事業譲渡払い下げ動き対す批判出されたが、結局共進会東洋製糖側との交渉結果両者覚書取り交わし事態収拾された。

※この「玉置商会から東洋製糖の時代へ」の解説は、「北大東島のリン鉱山」の解説の一部です。
「玉置商会から東洋製糖の時代へ」を含む「北大東島のリン鉱山」の記事については、「北大東島のリン鉱山」の概要を参照ください。

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