猶興義塾とは? わかりやすく解説

猶興義塾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/24 01:04 UTC 版)

武居用拙」の記事における「猶興義塾」の解説

尾張藩木曽代官山氏の家臣教育機関菁莪館」の儒臣、武居敬斎の長男として生まれ天保7年1836年)に江戸出て昌平坂学問所古賀侗庵や、松崎慊堂の塾に学び天保13年1842年帰郷菁莪館の助教となり、慶應3年1867年)には学頭務めた明治維新後、藤森桂谷明治3年1871年)に私費将来人材育成のために南安曇郡豊科村成相新田(旧成相新田宿)の法蔵寺境内開いた私塾猶興義塾の塾長として家族ごと招かれた。武居はここで、漢学開明的学問教え自主自由・民本の思想伝えた武居また、孟子』を読みかえて民権論をつくり出した。こうして明治13年1880年)に松本地方奨匡社発足する際には、猶興義塾がその基礎つくったと言える奨匡社創立委員20名の中には武居入っている。 明治17年1884年)に上京し明治19年1886年)には在京中の島藤村に「詩経」「春秋左氏伝」を教授し、そのため藤村の『夜明け前』、『桜の実の熟する時』、『幼き日』、『力餅』、『をさなものがたり』等に描かれることとなった明治23年1890年)には西筑摩郡長の要請で『岐古今沿革志』を編纂明治25年1892年)に福島村没した。 「奨匡社」の名前は、儒者でもあった武居が、『孝経』にある「其ノ美ヲ奨順シ、其ノ悪ヲ匡救ス」に由来して名づけたと、武居が『奨匡社記』に書いている。40歳の時、杜甫の「用拙存吾道」から号を「用拙」とする。 武居塾生であった松沢求策藤森武居指導貞享騒動芝居民権鑑加助の面影』に書いた。のちに松本地方における普通選挙期成運動主導した降旗元太郎中村太八郎塾生であった

※この「猶興義塾」の解説は、「武居用拙」の解説の一部です。
「猶興義塾」を含む「武居用拙」の記事については、「武居用拙」の概要を参照ください。

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