狗肉将軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:42 UTC 版)
1924年(民国13年)の第2次奉直戦争では、張宗昌は鎮威軍第2軍副軍長に任命され、軍功をあげた。戦後、段祺瑞による執政政府が樹立されると、張宗昌は宣撫軍第1軍軍長に任命され、上海に駐屯した。1925年(民国14年)2月、張宗昌は蘇皖魯三省剿匪総司令に任命され、徐州に駐屯した。そして、張作霖の後押しもあって、同年4月、張宗昌は山東軍務督弁に任命された。山東省での張宗昌の支配は、その苛酷さや残忍な処刑等により悪名高く、「狗肉将軍」と呼ばれるほど民衆から憎まれていた。奉天派の他の軍人たちと同様に日本の後ろ盾を得ていたことなどもあって、民国14年5月、青島における日本の紡績工場で起きたストライキには大規模な弾圧を加えた。また、支配の過程でかき集めた大量の私財は、大連の日本資本の銀行に貯蓄していた。 同年10月、浙江軍務督弁孫伝芳が、馮玉祥の国民軍と連携して奉天派への挑戦を開始し、張宗昌もこれを迎え撃った(浙魯戦争)。その後、奉直戦争で一時弱体化していた直隷派の呉佩孚も参戦し、情勢は、国民軍対直隷派・奉天派連合となる。12月、張宗昌は直魯聯軍総司令を自任して、北京の国民軍への攻撃を開始する。1926年(民国15年)4月、張宗昌は、馮の国民軍から北京を奪った。このほか、無学故にかえって旧学への羨望が強かったと見え、北京に入城した際には、華北の各学校で孔子教育の復活を強制するなどしている。
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