狗留孫山多宝院端山寺と里坊の廃寺
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幕末の頃、飯野村は島津領内にあった。その頃、思想的には平田篤胤の神道思想が盛んとなり、政治的には王政復古の胎動が激しくなった。そのため島津藩は強制的な廃仏毀釈に突き進むことになり、明治元年(1867年)3月17日付で政府の神祇事務局から僧形の別当や社僧の還俗令が発せられ、狗留孫権現社は「阿弥陀」「薬師」「観音」を「神鏡」に変えた。同時に鰐口、梵鐘そのほかの仏具を取り除くよう指令され、端山寺に数百年も吊るされていた寛正4年(1463)の鰐口も廃棄のやむなきに至った。その後も廃仏毀釈の弾圧が続き、明治三年(1870)には端山寺、里坊とも廃寺となった。
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