父母・兄弟等
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:47 UTC 版)
父親の名は、光綱・光隆・光国と諸説ある。『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると光隆から光綱と改名したとされる。『明智物語』 では、光秀の養父は明智頼明とある。 母親は若狭武田氏の出身で、名はお牧の方と伝わる。『総見記』などの軍記物では、光秀が老母を敵方へ人質に差し出す話が伝わっているが、事実ではない。 光秀に兄弟がいたとする、『鈴木叢書』収録の「明智系図」によると、次弟・信教は後の筒井順慶、三弟・康秀は三宅左馬助と号し、後に左馬助を称したという。いずれも別人の存在が明らかであり、事実との相違が甚だしい。『明智物語』では、光秀には定明、定衡の義兄がいたとある。 光秀の出自を明智氏としない俗説も多い。『明智氏一族宮城家相伝系図書』では母を光綱の妹とし、実父を山岸信周(進士信周)としている。熊本県菊池市の安国寺蔵「土岐系図」でも、光秀を信周の四男としている。 『若州観跡録』では、若狭国の刀鍛冶・藤原冬広の次男としている。 『明智光秀の乱』(著者:小林正信)では、明智光秀の前半生がわからないのは名前を改姓した事によるものだとして、明智光秀になり得る者を室町幕府の奉公衆の中にいる人物と断定し、僧体から還俗した進士知法師に注目した。進士氏は鎌倉時代より続く名門であり、包丁式進士流を伝える家柄で、御膳奉行を務めることでも知られている。永禄の変で死んだ足利義輝の側室・小侍従局の父が進士晴舎であった。そして、永禄の変で殉死した筈の進士晴舎の嫡子である進士藤延こそが明智光秀になった人物だと特定し、明智光秀の家臣で進士貞連は実弟で進士氏の家督を継いだとした。また、永禄の変で死んだ筈の妹の小侍従局は明智光秀の妹である御ツマキなり、小侍従局の身籠った子供は明智光慶になったとしている。ただし、同書の説はあくまで著者による憶測である。
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