燈明堂の構造について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/13 14:43 UTC 版)
「燈明堂 (横須賀市)」の記事における「燈明堂の構造について」の解説
燈明堂は下部の石垣と上部の木造建物で構成されていた。上部の木造建物は現在に残されている絵図から判断すると上下二層で構成されており、上層で明かりを灯していたと見られている。また屋根は瓦葺であったとされ、後述の発掘時にも瓦が検出されており、瓦葺であったことは明らかであるが、発掘時に検出された瓦には本瓦と桟瓦があり、本瓦葺きであったのか桟瓦葺きであったのか必ずしもはっきりしない点があるが、発掘内容から見て安政元年(1854年)の安政東海地震に伴う津波によって崩壊する以前は本瓦葺きであり、その後の再建時に桟瓦葺きとなったと考えられている。なお発掘された桟瓦の中に完形を留めたものが全く見られないことから、燈明堂の廃止後、使用されていた桟瓦は他の建物に転用されたと見られている。 燈明堂の木造建物上層は四面に鉄骨製の障子が嵌め込まれ、鉄骨障子は銅製の網が張られていた。銅網が張られた鉄骨障子の内部には燈明皿が置かれており、油が燃やされて明かりとなっていた。 二層の木造建物を載せていた石垣は、下端で約4.7×5.0メートル、上端で約3.7×3.9メートル、高さは約1.8メートルであった。石材は安山岩である伊豆石が全体の約8割以上を占め、残りの石材は根府川石や瀬戸内方面からもたらされたと考えられる御影石であり、これは江戸城の石垣に用いられている石材の構成と類似しており、江戸城築城時に余った石材を流用したものと考えられている。石垣の積石工法も江戸城築城で用いられた元和から寛永年間に大成された「切り込み接ぎ石垣」という技術が用いられており、崩壊しにくい締まった石垣が構築されている。 また石垣の東面と南面の一部は、西面と北面では見られない積石の緩みが見られる。これは安政東海地震による津波で石垣の一部が崩壊して修復された際には、「切り込み接ぎ石垣」の技法を持たない職人が修復作業に従事したため、修復部分に石垣の緩みが発生したものと考えられる。 浦賀の燈明堂は、四方から建物を支える控柱が取り付けられている。石垣の四隅の対角線上に安山岩製の礎石が設けられ、礎石に取り付けられた控柱が燈明堂本体の建物を支えていた。昭和63年(1988年)から平成元年(1989年)にかけて行なわれた燈明堂の復元以前は、四つあった礎石のうち二つが残っていた。この控柱の礎石である安山岩は石垣に用いられている安山岩と明らかに違う種類のものであり、控柱は燈明堂創建当時からあったものではなく、いずれかの建物倒壊後に建物補強のために新たに設けられた可能性が高い。
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