燈明堂の運営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/13 14:43 UTC 版)
「燈明堂 (横須賀市)」の記事における「燈明堂の運営」の解説
浦賀の燈明堂は、浦賀水道を航行する船と浦賀港を利用する船の航行安全を図るために江戸幕府が建設したという経緯から、当初修繕などの維持費用は幕府が負担していた。一方、建設当初は菜種油、その後魚油を用いた燈明の燃料代と燈明堂の燈台守については当時の東浦賀村と、寛永19年(1642年)に成立した浦賀の干鰯問屋が受け持つことになっていた。 ところが元禄5年(1692年)になって、上総の干鰯問屋が浦賀への新規進出を目論み、幕府に対して浦賀への新規進出を認めてもらえたら運上金の納入と燈明堂の維持費用を全て負担すると申し出た。当時15軒あった浦賀の干鰯問屋は新規進出を阻むため、同様の条件を幕府に提示し、上総の干鰯問屋の新規進出を認めないように嘆願した。結局、上総の干鰯問屋の浦賀進出は幕府より許可されることはなかったが、以降燃料代と燈台守ばかりではなく燈明堂の維持費用も浦賀の干鰯問屋が負担することになった。 岬の先端にある燈明堂は、台風などによる暴風や大地震による津波によってしばしば大きな被害を蒙り、老朽化に伴う修繕も必要であった。まず享保8年(1723年)には暴風によって建物が倒壊した。そして文政12年(1829年)には80両を費やした大修理が行われたものの、直後の天保3年(1832年)と天保4年(1833年)には二年連続台風に襲われ、建物ばかりではなく石垣も崩されてしまったため、234両を費やして修復が行なわれた。そして安政元年(1854年)には安政東海地震に伴う津波に襲われ、燈明堂は大きく破壊された。江戸時代の中期以降、浦賀で取り扱う干鰯の量が減少していくようになり、干鰯問屋の経営が厳しくなっていく中で燈明台の維持管理を担うことは大きな負担となったが、倒壊後には直ちに仮設の燈明堂を設置するなど、浦賀の干鰯問屋らは浦賀港に入港する船と浦賀水道の航行安全に不可欠な燈明堂の維持管理に尽力し続けた。
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