為政者達の治水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 14:11 UTC 版)
縄文時代、新潟市を中心とした越後平野の一部は日本海であった。その後、徐々に信濃川や阿賀野川が運搬してきた土砂と、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}対馬海流が運んできた土砂が[要出典]越後砂丘を形成して堆積。現在の越後平野を形成したが低湿地で方々に潟が存在し、水捌けの悪い地域であった。又、洪水によって幾度も流路を変えた。 1597年(慶長2年)、越後春日山城主上杉景勝の執政で名将と謳われた直江兼続は燕・三条付近の洪水調節を図る為中ノ口川を開削。これが近世信濃川治水史の端緒となる。 上杉氏転封後の江戸時代、新発田藩主となった溝口氏は中ノ口付近も領していた為に代々の藩主は河川改修を実施していた。 長岡藩第9代藩主の牧野忠精は信濃川の河川改修に特に力を入れた。新川開削の大事業を行って蒲原平野に存在していた3つの潟の悪水を日本海に排水し、蒲原平野の新田開発を成功させた。 信濃国・千曲川でも江戸時代を通じて64回の洪水を記録し、犀川との同時洪水ですら11回を記録するという。この間に福島正則や松代藩主・松平忠輝の家老花井氏親子や、松代藩へ国替えとなった真田氏歴代が築堤や掘割、河道の付替えなどを度々行った。 だが、度重なる治水事業を行っているにも拘らず、信濃川は氾濫を繰り返して為政者の頭を悩ませた。こうした中で浮上して来たのが大河津分水路計画である。
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