瀬田川治水の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 15:33 UTC 版)
「琵琶湖の水止めたろか」の記事における「瀬田川治水の歴史」の解説
詳細は「淀川#淀川開発史」を参照 「琵琶湖の水」にまつわる上流・下流の対立は古くからある。奈良時代の僧侶行基は、治水のために瀬田川沿いにある小さな山を掘削することを試みたが、下流が氾濫することを恐れて計画を断念している。江戸時代には、1699年(元禄12年)の「河村瑞賢による大普請」や1831年(天保2年)の大普請などの浚渫工事がおこなわれているが、大洪水を恐れる下流住民の反発もあり、江戸時代を通しての浚渫工事は、公儀による普請が2回、自普請(地元の村による工事)が3回の計5回に留まった。なお、1831年の大普請においては、高島郡深「溝村の庄屋藤本太郎兵衛の主導で下流の約300村の同意を取り付けている。 1890年(明治23年)には、同年に完成した瀬田川鉄橋の橋脚が水流を阻害していると考えた滋賀県内の有志により琵琶湖水利委員同盟が結成され、橋脚撤去の請願が退けられた後、瀬田川浚渫の請願をおこなうようになる。これに対し、1885年(明治18年)の淀川洪水で被害を受けていた下流摂津・河内11郡の有志は淀川改修期成同盟を結成し反対した。1891年(明治24年)から翌年にかけ、滋賀県の大越亨知事が内務大臣に瀬田川浚渫を数度にわたって陳情し、1893年(明治26年)には部分的な浚渫が実施され、以降は複数の治水工事が行われている。 なお、江戸時代の自普請での浚渫においては、洪水の被害を受けた農村が全額(年間収穫高の約6パーセント)を負担したが、水資源開発公団の琵琶湖開発事業に組み入れられて以降の浚渫および洗堰改築事業においては、8割が下流の利水者の負担であり、国の負担も除くと滋賀県の負担は2.6パーセントと少なくなっている。
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